文楽座の人形の顔を座敷で手にとって見ると、案外小さいものである。野球のボールの二、三倍位のものだろう。ところがその顔の造作が素晴らしく大げさにいかめしく出来上がっているところへ、はなはだ大まかなその使い方によって、あの人形が広い舞台一杯にのさばり出して大きな印象をわれわれに与える。
ちょうど油絵の仕組みと同じく、常に遠く眺めてよき効果あることを考えつつ作って行くのに似ている。近くで見てちょうどよろしき仕上げでは壁面へ収まって[#「収まって」は底本では「収まってしまう」]から、色も調子も飛んでしまって存在が弱い。
元来日本の油絵は奥行きと調子がなく、味わいはあるがうすっぺらで展覧会場で引き立たず、色ざめてしまい小細工となっていじけがちであることは、日本人が常に畳の上で色紙を描き炬燵によって美人の顔ばかりを鑑賞していた遺風によるものであるかも知れない。総じて西洋ふうの芸術は舞台的だといっていいと思う。
相当の役者にして、どうもも一つ素晴らしく大成しないものがある。私はそれらの顔に、すなわち持って生まれた素顔の構成上、致命的な鼻の低さ小ささ等を発見して、気の毒に思うことがある。しか
前へ
次へ
全152ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング