たりさえもする。
 私の通っていた小学校などは花柳界に近かった関係上、女生徒は殆ど小さい大人ぐらい艶めかしかった。そして彼女らは家庭教育によって水あげという意味さえ了解していた。
 要するに子供の世界と、子供のためにという心がけを、一切大人は持っていてくれなかったものだ。子供すなわち大人でしたがって昔の子供は早くから暗い影を持っていた。子供と妻と亭主と打ち揃って往来を散歩することはもっとも恥ずべき所業であったことは、現代から見ると大よそ嘘の如き話である。
 昔の日本の大人は早く童心を失ってしまい、子供も早く童心を卒業しようとした。早く内密の世界へ、大人らしく暗く世帯じみた世界へばかり志願していたように見える。
 猫を私は愛するが、彼は食べて寝て起きて然る後私の手先の運動に対してふざけて遊ぶ。私はその間、猫とともに笑っていることが出来る。ところがある時期がくると手を動かしてやっても手毬を見せても鬱陶しい顔をして見向きもせず、常に屋根に志してうろうろと出て叫び、四、五日も姿を隠しやがてうす汚れのした不良少年と化けて帰ってくる。その時がすがすと食事をした後、ようやく元の童心の猫へ立ち帰る。

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