では「私は」]それぼん[#「ぼん」に傍点]これはどうやといいつつ懐紙へかわせみと水草を描いて見せた。私は一生懸命その墨画を真似《まね》たがどうも先生ほどの墨色は出なかった。
 箕面の滝が消え去ると近松の秋暑しである。その次が誰の作か忘れたが紅葉の図だった。
 私はどうも絵が習って見たくて堪《た》まらなくなってしまったので、父に無理をいってとうとう天満の祥益先生を訪れたものだった。私の最初の先生は、その箕面の滝と殆ど同じぐらいの温順さにおいて紅毛氈《あかもうせん》の上へ端然と坐して絵絹《えぎぬ》に向っていた。そして私のために一本の竹を描いて見せた。
 今、西洋人が日本画家の一本の筆先きから生れる竹石、雲煙の妙に驚くのと同じ種類の驚きで私は眺めていた。
 さて家に帰ってやって見るに一向竹にもならず、徒《いたず》らに紙屑《かみくず》を製造する。退屈はとうとう私に絵というものは思ったより憂鬱なものだと感じさせた。

 ともかく、季節によって変化する床の間風景は子供である私の心を刺した。全く日本の床の間は色彩と自然と芸術をなし崩しに放散して、日本人の生活に重い役目を仕《つかまつ》っている。
 四
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