おがさわら》島の南東に颱風《たいふう》が発生した事を報じる。重い湿度はわれわれの全身を包んで終日消散しない。驟雨《しゅうう》が時々やってくる。そしてどこからとも知れず、通り魔の如く冷たい風が訪れる。そして重たい汗を冷却して膏薬《こうやく》にまで転化させる。
 もう九月が近づくと天上の変化のみならず、地上のあらゆる場所から何物かが引去られて行く気配が見える。例えば道頓堀《どうとんぼり》に浮ぶ灯とボートの群が、真夏ではただ何か湧《わ》き立って見えるけれども、九月に入ると湧き立ち燃え上るような焔《ほのお》が日一日と消え去って行く。
 軒並みの浴衣の家族が並ぶ夕涼みがそろそろ引込んでしまう。

 以前、私の家では、かかる季節には必ず床の間の軸物が取かえられた。初秋に出る掛物は常に近松《ちかまつ》の自画自讃ときまっていた。それは鼠色の紙面へ淡墨《うすずみ》を以て団扇《うちわ》を持てる女の夕涼みの略図に俳句が添えてあった。「秋暑し秋また涼し秋の風……か、なるほどよういうたあるなあ」といって父は幾度か感心して読み返した。すると、その床の間の隅《すみ》の暗い影から朝すず虫が鳴き出すのだ。ほんとに千九百
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