いの衣裳であるのだから。
尖端的、近代性は、以前のハイカラとか、文明開化、文化、などいう言葉の如く通俗化しつつあることを私は面白く思う。
しかしながら今日のハイカラは明日の新時代ではなく、明後日の近代性は来年の尖端には及ばないとすれば、ハイカラの前途もまた永遠であるといっていい。したがって二科の新鮮さもそれらの現れであるとすればまた永遠のものであろう。
さて近代性は二科の特質であり、その看板の如くであるようだが、しかしそれはそれらの尖端的のもっとも多くを抱擁し、それら新しき運動に対して常に門戸を開いているのではあるが、それが二科の全部の正体でも決してあり得ないと私は思っている。同時に二科は印象派以後のあらゆる諸傾向を含み集めていた。そして近代だからことごとく賛成するわけでもなく、古風だから皆悪いとするわけでもなく、運動は運動であり、進歩は進歩であり、同時にまた独自の芸術は芸術でもあることである。
すなわち二科全体を見れば、そこに自分の軌道を充分に持ち、年とともに安穏にその上を行進している人達と、自分の軌道と、自分の乗物と、自分の靴と、自分の足もとについて考察しているもの、あるい
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