門司《もじ》の街《まち》を午後三時に散歩した時のやるせなき蒸暑《むしあつ》さが直ちに思い出された。上海や香港も暑かったが汗が直ちに空気と化す如く思えて、やるせなき暑さではなく心は常に晴々としていた。要するに日本の夏位汗を絞り出す空気はないようだ。殊に九月の初め頃の残暑の汗は、油汗といって皮膚の表面は重油を塗られた如くべっとりとして、終日乾燥しない傾向がある。悪性の汗だ。その重油の皮膚へ当る初秋の風の冷たい触感は情なくも憂鬱《ゆううつ》だ。その悪性の汗を夕方の一|風呂《ふろ》によって洗い清める幸福はいい加減な恋愛よりは高雅な価値がある。
しかし汗もいわゆる軽く汗ばむという言葉の如く汗ばむ事は、人間の心を妙にときめかす力がある。そして男女の肉体の香気を秋よりも冬よりもむしろ春よりも実際的な力を以て立ちのぼらせる傾向がある。
仲秋の月は鋭く冴《さ》えて清潔だが、少々気候が寒過ぎはしないか。月見に誘われて船の中で寒気のために固くなって帰った経験はしばしばある。私は殊に貧血性だから。
本当に私に適当な月は、八月の盆の頃の月である。物干しへ出て寝ころびながら、月面の穴に見惚《みと》れ、そのうち自分がその穴へ這入《はい》って見たり出て見たり、最も高く銀色に輝く頂点へ立って見たりしていても、決してその莫迦《ばか》らしき想像を冷却すべき寒気がない。あるいは彼女と共に海辺を、森を、午前三時まで散歩しても、決して風邪を引かない。もしそれ抱擁せんか、多少の汗ばみたるは、夏の夜を更に香ばしく調子づけはしないだろうか。
とかく、秋の天候は変化に富み、折角の一年の月が曇らされてしまう今宵《こよい》ともなりがちだ。さように稀《まれ》な寒い月を求めずとも、私は盆の頃の少々まだ土用の熱気のために逆上してはいるけれども、八月の月を遠慮なく眺める事をすすめたい。
とはいえ私も考えて見るに、あまり寒からず曇らず、あまりに平凡に電燈の如く輝いているが故に、おやいい月だといってしまうと同時に、われわれはすぐ退屈を感じて月の事はもう天へ預けておいて、勝手な事をして遊んでしまう。
かの、四、五人に月落ちかかる何んとかいう言葉は、全く盆踊のために忘却されたる月が天に一つころがっている感じがよく現れていると私は思う。
完全に忘れられたる月を私は巴里《パリ》で見た。モンマルトルやサンゼルマンの夜の空に、三笠山《みかさやま》で眺めたと同じその明月が憐《あわ》れにも電光に色を失って気の毒にも誰れ一人見るものなく、四角な家と家との間に引懸《ひっかか》っているのだ。私はあれは天の金ボタンかとさえ思って見た。だが日本の仲秋の月でさえも、今に天の定紋《じょうもん》となってころがる時が来るだろう。
甘酒とあめ湯は旧日本の珈琲《コーヒー》でありココアでもあったが、今は奈良公園の夏の夜の散歩において、猿沢池《さるさわのいけ》の附近ではまだ飲む事が出来る位のもので、大体都会ではコールコーヒーとアイスクリームだ。
さてあめ湯とコーヒーと、どちらがうまいかを考えて見るに、どうもコーヒーの方がうまいとはいえない。だがあめ湯が飲みたいといえば女学生でさえ笑って、理由も何も聞いてはくれないであろう。
先ず横町のカフェーの珈琲というものは大体において何かの煎じ汁へ砂糖を入れただけのものの如く、でもそれを飲む事が人間の運命となりつつあるようである。田舎の宿屋へ到着した時、多少ハイカラな構えの家では先ず第一に珈琲糖をうやうやしく捧《ささ》げてくる。褐色《かっしょく》の粉末が湯の底に沈んでいる。
私はやむをえず近頃は、日本のお茶という言葉を使って遠慮なく註文する事にしている。
私は暑中でも氷やアイスクリームを食べ、冷たいコーヒーを飲む事を好まない。私は汗を忍耐しながらも熱い珈琲を、熱い茶を飲む、かくして汗を以て汗を洗う。唐突に氷を以て、冷水のタオルを以て汗を引込める策略は、汗を変じて重油と化するおそれがある。
暑い日の海水浴は水の美しき誘惑には敵しがたいけれど、そのあとの皮膚の感触位|嫌《いや》なものはない。私は真夏でも熱い茶と熱い珈琲と温浴を愛する。汗のあとの湯上りの浴衣《ゆかた》の触覚にこそ夏の幸福は潜んでいる。
私は従って高山や高原への避暑を好まない。折角の夏の味を寒い処にいて袷《あわせ》でも朝夕は寒い位ですよといった自慢はして見たくない。
時に雨つづきの、もう一段と夏になり切れずにすむ夏があるものだが、私は何か天変的な恐怖をさえ感じる。
雑誌社の往復はがきはしばしば貴下の新案避暑法はといった事を註文してくる。
私は家族の者を海へ泳ぎに出しておき、一人画室のソファでのうのうと寝ころびながら、萎《しな》びた朝顔を眺めて見たり、仕事に夢中になっていたりさせてもらう方が、私にとって
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