込み上ってくる。
 といって今、往来で拾ったばかりの石を貴金属屋へ持参して、その周囲をかくの如き様式の芸術で包んでくれと頼んで見た所で、職人は、あほらしい、そんなもったいない[#「もったいない」に傍点]ことはやめなさい、第一この石はただの石やおまへんか、というにきまっている。すると美しき空想も芸術も何もかもそれで終局となる。
 南仏の沿岸は赭色《しゃしょく》の石で充《み》ちている。それはモネーの地中海と題する有名な絵を見てもわかる。その小石を指輪にして美しい加工をその周囲に施したのを、パリである友人の指に私は発見したことがあった。赭色と、フランス金の黄色と、その唐草《からくさ》模様はよき調子を持っていた。そのことを私は思い出してTさんに話した所、それはさぞいいでしょうといった。丁度Tさんの友人で甚だローマンチックな画家が渡欧するので、君、何も土産《みやげ》はいらない。ただ地中海の赤い石だけを忘れぬように送ってくれといったものだ。
 忠実なる画家は、その後忘れずに南仏へ旅した時、村の人々にも訊《たず》ねて見たが、指輪にするようなそんな赤い宝石は、昔からこの地方に産しない、誰も皆知らぬといったそうだ。しかも彼はそのざらにある石ころを靴で踏みながら、赤い玉を尋ねて甚だくたびれたという。

   ファン相貌メモ

 有頂天という、その頂天を離れたるファンの魂は頭上二、三尺の間を上下往来している。超有頂天である。
 今や小倉対広島のクライマックスである。彼らの拍手は自身および近隣の魂まで叩き潰しはしないかと思われた。かと思うと天眼をもって闘士の行動をじっと見据える。
[#地から1字上げ](「大阪朝日新聞」昭和五年八月)

   真夏の言葉

 夏服で神戸を散歩する頃、私はいつも渡欧の途中、上海《シャンハイ》や香港《ホンコン》へのヘルメット姿における上陸を思い浮べる。私自身が船を突堤にすてている旅行者の心となる処に、甚だ軽快な味を感じる。同時にそのあらゆる国の様々の船の美しい煙突が煙を吐いて重なり合っている風景を、ギラギラする陽光の中に見ると、全くこうしてじっと植物の如く地上に動かず立っている事、が大変口惜しく思われてならぬ。
 とにかくエンジンの動く甲板へ立ちさえすれば、われわれが幾枚かの絵を塗りつぶしている間に欧洲航路の船長は、甲板という地上の断片に乗って印度洋を何回か往復するのである。といって用もないのに船長の如く地球を走って見てもつまらないけれども、私は夏における汽船進行の形を見ると誘惑される事|甚《はなは》だしいものがある。せめて別府《べっぷ》行きの紅丸でもいいから、それに乗ってあのペンキの匂《にお》いを嗅《か》ぎ廻って見たいと思う。鼻から彼南《ペナン》、印度洋、マルセイユが蘇《よみがえ》ってくるのだ。
 私が印度洋を知らなかった時、私の心配は印度洋と紅海《こうかい》のその暑さの度合だった。どれ位の暑さかという事を経験ある人たちに訊《たず》ねて見たが、各々人によって答が異っていた。とても君のからだではあの暑気に堪えられるかどうかという致命的な心配を与えて、私をおどかす者が多かった。ではこれ位ですかといって私は火鉢の火の上に手をかざして見たりもした。
 でも、私が日本を出る時、私のスートケースの一個は全く浴衣《ゆかた》のねまき[#「ねまき」に傍点]と一|打《ダース》の猿股《さるまた》とシャツによって埋められていた。
 それは私が暑さを厭うからでなく、汗を特別に嫌がるためだった。衣服と皮膚との間に一つの汗という汚水の層を持つ事は全く不愉快な事だ。浴衣の汗は直ちに拭《ぬぐ》い去る事が出来るが洋服の汗はカラーによって封じ込められているため、手を入れるべき隙間《すきま》がない。やむなく体温が汗を乾燥させるまでじっと忍耐しなければならない。この間の皮膚の触感位情ないものはない。窮屈な場所で紳士は羅紗《ラシャ》のモーニングを着用し、あるいは女は素晴らしき帯を幾重にも胴体へ捲《ま》きつけていると、胸も臍《へそ》も夕立を浴びているにちがいない。誰れも彼も悉《ことごと》く汚水の層を馬の如く着用しているのかと思うと私は甚だ気の毒に思えてならない。汗を直ちに気体とする下襦袢《したじゅばん》はないかと思う。
 さて私の印度洋は湿気と雨と風とで日本の梅雨を思わせ、私はその風に当って軽い風邪《かぜ》を引いてしまった。印度洋で風邪を引くという事は全く私のプログラムにはない事だった。さすがに紅海は太陽の光と熱砂の霞《かすみ》と共に暑かった。汗と砂漠《さばく》の黄塵《こうじん》によって私の肉体も顔も口の中までも包まれてしまった。そして地中海に入って漸《ようや》く初秋を感じた時、顧みて何処《どこ》が最も暑かったかを考えた時、私は日本の八月の神戸港頭に立った時と、殊に
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