は幸福な避暑法だといっておく。
 芸術と金といえば大変仲の悪いものの如く聞こえるが、その愛するという心の動き方については殆んど同じ三昧境《さんまいきょう》を得ているある老人があった。その老人は金と女の道楽といってもむしろ性慾の道楽という方が近いかも知れなかった。金と性慾、何んと下卑《げび》たものではあるが、しかし彼は常に暗い旧家らしい奥座敷の籐《とう》むしろの上に机を据えて、毎日朝のうちは金の勘定をする事にきめていた。黒光りする用箪笥《ようだんす》から幾束かの紙幣を取り出して、一枚一枚丁寧に焼鏝《やきごて》をあてて皺《しわ》を延ばして行くのであった。そして私にも金をかく愛しなはれと教訓してくれた。当時まだ子供あがりの私も、なるほどこれは費用のかからぬいい道楽だと思った事があったが、さてその教訓の通り家へ帰って延ばして見たくとも、その原料がない事は甚だ遺憾な事であった。一時間の後には人手に渡るべき一枚の五円紙幣に電気アイロンをあてて見る気にはなれない。
 しかしその老人は全くの無慾の状態において、専念紙幣に焼鏝をあてていたが、彼はそれによって世を忘れ、時を忘れ、今日は九十何度という事も忘却する事が出来、あらゆる他の慾望を持たなかった。ただ夕刻になると皺の延びたる一枚によって、も一つの三昧境の陶酔を買いに行くのであった。芸術家の至上主義が昂《こう》じると生活が乱れやすいが、老人のこの主義は真《まこ》とに安全だから結構だと思って見たりした。甚だ合理化された避暑法だ。
 とにかく、私は夏を愛する。そして冷たい秋風と残暑による重油の汗の季節になると、私の胃腸はよくない変化を起していけない。

   太陽の贈物

 人間の行事もこと面倒だが、自然が行う行事もなかなか手数のかかる準備をやっている。新秋の行事はすでに初夏においてそのことごとくが整頓準備されている。夏の初めのころだった。私の画室のテーブルに一匹の蟷螂の子供が現れた。その子供はまだ五分の長さを持っていなかったのに、蟷螂としての条件はことごとく備えているのだ。私は虫眼鏡を取り出して覗いてみた。すると彼は頸を傾けて私を睨んだりする。しかしまだ羽根は生えていないが、その勇ましき姿は蟷螂の少年団を思わせた。
 私は彼を筆の穂さきへのせて、やがて来たるべき新秋のためにかどの叢の中へにがしてやった。ところが今それらが成人して朝顔の葉の上に、雑草の間に威張っている。
 冬の最中に春の草が地中に頭を揃え、真夏の問屋は冬帽を整え、秋の展覧会への主要な作品は二月のころに私の画室で組み立てられる。
 柿の実は青葉の懐に護られつつふくらんでいる。栗、メロン、いちじく、葡萄、その他新秋の百果は夏の青葉の陰に隠されつつ成人し熟して行く。それこそは次第に冬へ去って行く太陽が淋しき地上への贈物であるかも知れない。われわれはその中元御祝儀を遠慮なく頂戴して、そのお汁を充分に吸いましょう。
[#地から1字上げ](「大阪毎日新聞」昭和五月[#「五月」はママ])

   新秋雑想

 立秋という日が過ぎて、どれだけ私のパレットの色数に変化を来《きた》したか、それはまだはっきりとは現れない。ただ天地の間に何物かが一つ足りなくなって行く空白を、私の全身が感じるだけである。時に、甚だ冷たい風が心もち赤味を帯びた夕方の太陽の光に交って、木の下草の蔭へ吹きよせるだけである。すると、夏から用意されていた虫の子供が成人して、かすかなる音を立て初める位の変化を現す。私は深い秋より以上に、この新秋が来た天地の微《かす》かなる変化を愛する。
 だが、健康の人はこれに元気を回復し、やがて来るべき朝寒むへの用心のために脂肪を蓄積するであろう。しかし、われわれ骨人はその立秋の変化にあたりて下痢を催し、骨人は断然百パーセントの骨へ近づく。
 春の草は丈《た》け短く、地にがっしりと腰を据えたるが多く、花は紅を基調とする。夏草は中等に伸び上り、花は白が基調である。秋の草は蔓《つる》を延ばし、ひょろひょろと細く、どこまでも高く、骨人や幽霊の類に配しては、全く気の毒なほどよく似合う背景となり、萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、すすき、女郎花《おみなえし》の類は怪談の装幀《そうてい》によろしく、その色彩もうす紫が地となっている。
『雨月《うげつ》物語』の中のいずれの章であったか、俺《お》れが今度旅から帰るのは葛《くず》の葉の裏が白く風に翻《ひるがえ》るころだろうといった意味の文章があった。葛の葉の裏の白さは初秋の空白を示している。私の画室の近くは、今この葛の葉で全く蔽《おお》われている。
 去年の初秋のころ、私の家には「銀」と呼ぶ白猫がいた。その眼は金色で、尾は狐の如く太く地に曳《ひ》いていた。全身は綿の如く白く柔軟だった。毎朝、彼女は犬の如く私に従って松原を
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