散歩した。銀は葛の葉のしげみへ隠れて私を待つのだ。白い尻尾《しっぽ》が左右に動いているのが見える。私が近づくと彼女は妖魔《ようま》の如く、音もなく高く飛び上って、また次のしげみへ隠れて私を待つ。
 銀はその後、勝手に一人、この叢《くさむら》へ遊びに行くようになったが、私がその名を呼んで手を叩《たた》くと、彼女はどこからともなく私の足もとへ直《すぐ》に帰って来た。ところが或日の夕方、私が如何に手を叩いても銀は現れないのだ。
 私はそれから、この葛の葉の蔭に白い紙片が落ちていても、銀かと思って立ち止まった事がしばしばであった。

 フランスなどの四季の変化は甚だ緩慢で、よほど注意していないと秋にいつなってしまったのかわからない事さえある。いつとはなく次第々々に冬が深くなって行く。
 ところが日本の四季の変化は急激で非常にはっきりしている。土用で鰻《うなぎ》を食べたかと思う間もなく立秋である。すると、早速にも入道雲の峰が崩れかかり、空の模様に異状を呈する。それはショーウィンドのガラス面へボンアミを平手で塗りつけた如く、かき乱されたる白雲が青空に塗りつけられる。
 するとやがてラジオは小笠原《おがさわら》島の南東に颱風《たいふう》が発生した事を報じる。重い湿度はわれわれの全身を包んで終日消散しない。驟雨《しゅうう》が時々やってくる。そしてどこからとも知れず、通り魔の如く冷たい風が訪れる。そして重たい汗を冷却して膏薬《こうやく》にまで転化させる。
 もう九月が近づくと天上の変化のみならず、地上のあらゆる場所から何物かが引去られて行く気配が見える。例えば道頓堀《どうとんぼり》に浮ぶ灯とボートの群が、真夏ではただ何か湧《わ》き立って見えるけれども、九月に入ると湧き立ち燃え上るような焔《ほのお》が日一日と消え去って行く。
 軒並みの浴衣の家族が並ぶ夕涼みがそろそろ引込んでしまう。

 以前、私の家では、かかる季節には必ず床の間の軸物が取かえられた。初秋に出る掛物は常に近松《ちかまつ》の自画自讃ときまっていた。それは鼠色の紙面へ淡墨《うすずみ》を以て団扇《うちわ》を持てる女の夕涼みの略図に俳句が添えてあった。「秋暑し秋また涼し秋の風……か、なるほどよういうたあるなあ」といって父は幾度か感心して読み返した。すると、その床の間の隅《すみ》の暗い影から朝すず虫が鳴き出すのだ。ほんとに千九百三十年の私の今の文化住宅から見ると全く以て平安なる日本的情景であった。
 盆が来ると寺の住職が大礼服によって出張する。線香の煙と、すず虫と、近松と、お経と木魚《もくぎょ》の音が新秋の私を教育してくれた。と同時に私は略画の情趣を知らぬ間に感得してしまった。何が私に絵心をつぎ込んだかと流行語で問うたなら、近松|門左衛門《もんざえもん》がそうさせたといえば足りるであろう。
 床の掛物が、学校教育よりも私自身により多く作用した事は恐るべきものである。

 床の間といえば、夏になると必ず出る滝の図があった。渡辺祥益といって天満《てんま》に住んでいた四条派末期の先生の作で、その画風は本格的で温柔そのものであった。図は箕面《みのお》の滝の夏景である。青い楓葉《ふうよう》につつまれたる白布の滝が静かに落ち、その周囲は雲煙を以てぼかされた。その座敷へ夏の太陽がさし込み、反射が暗い床の間を照して、その滝はすがすがしくも落ちていた。
 甚だ病弱だった私は裏に住む漢方医者に腹を撫《な》でてもらいながらも、その滝に見惚《みと》れた。その医者が、ちょっと竹に雀《すずめ》ぐらいの絵心はあった。私に[#「私に」は底本では「私は」]それぼん[#「ぼん」に傍点]これはどうやといいつつ懐紙へかわせみと水草を描いて見せた。私は一生懸命その墨画を真似《まね》たがどうも先生ほどの墨色は出なかった。
 箕面の滝が消え去ると近松の秋暑しである。その次が誰の作か忘れたが紅葉の図だった。
 私はどうも絵が習って見たくて堪《た》まらなくなってしまったので、父に無理をいってとうとう天満の祥益先生を訪れたものだった。私の最初の先生は、その箕面の滝と殆ど同じぐらいの温順さにおいて紅毛氈《あかもうせん》の上へ端然と坐して絵絹《えぎぬ》に向っていた。そして私のために一本の竹を描いて見せた。
 今、西洋人が日本画家の一本の筆先きから生れる竹石、雲煙の妙に驚くのと同じ種類の驚きで私は眺めていた。
 さて家に帰ってやって見るに一向竹にもならず、徒《いたず》らに紙屑《かみくず》を製造する。退屈はとうとう私に絵というものは思ったより憂鬱なものだと感じさせた。

 ともかく、季節によって変化する床の間風景は子供である私の心を刺した。全く日本の床の間は色彩と自然と芸術をなし崩しに放散して、日本人の生活に重い役目を仕《つかまつ》っている。
 四
前へ 次へ
全38ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング