ト気が付くと、アア俺は今紅海を走っている最中やのに、こんな処へ帰ってはさア大変だ、早く船へ帰ろうと思ったら、又旅券の下附願いからやり直さねばならぬ事になって、これはなんじゃと思うて、フト夢からさめたら、クライストのベッドに居ったので、おかしい様な、ヤレヤレとした様な、妙な気もちになったよ。

 九月十四日 地中海にて クライスト丸より
 三日してマルセーイユへつけば、一泊の後ちパリへ入る。
 ポートセイドではよほど欧洲らしい気分になって来た。夜のメンストリートの道側のカフェーの椅子に腰かけて、散歩する色々な人種を眺めていると、カフェーのオーケストラが聞えてくるし、路バタの熱帯らしい樹木が垂れ下がって、実にいい気もちだ。
 早く帰って、も一度今度は重子も泰公もつれて来てやろうかと云う心もちがしている。それはいいんだからね。
 此の辺はエジプトの黒人と、アラビヤ人と、欧洲人とのごっちゃまぜだから面白い。黒い人は皆赤いトルコ帽を被っている。
 何れマルセーイユへつけば、又手紙をかく事にする。
 もう船の中では、皆上陸の準備で忙がしい。
 熱いうちは、デッキが賑やかだったが、もうこのごろのデッキは、ヒッソリとして、皆が Cabin へ入ってしまっている。海洋のまん中でも、秋はもの淋しくなるものだ。
 今夜は甲板で月見の宴をやろうという話がある。丁度、日本では豆明月だと思う。サヤマメがたべて見たいと思う。
 パリへ入る日は、丁度おひがんの入りあたりであると思う。
 此の辺の空気は乾燥しているので、暑い時でも汗が出ないので、気もちがイツもセイセイしている。健康によいと思う。
 おかアさん、おばアちゃん、お梅ちゃん、奧田さんなど、皆への健康を祈る。泰公も皆たっしゃで。又後便にて。

 九月十四日 地中海にて クライスト丸より
 ポートセイドの町を歩くと、女の手携げ袋のステキな面白いものや、壁かけのいいのや、サラサのいいのがずい分ある。皆かいたいものばかりだ。が、往きに買うと荷物がフエルから、ぜひ帰りには買って帰るつもりである。然しかべかけの一枚は買った。
 重子が見たら、とてもその店から動くまいと思われる位、すきなものをどっさりと此の町には売っている。
 何から何まで面白いものばかりだ。
 アラビヤとアフリカの種々な感じの模様と色のよさは、とても日本の五階下をうろついていては見当らないもんだよ。帰りには、ずい分珍らしいおみやげがあるから、そのつもりで楽しんでいてくれ。
 Portsaid を出てから船はすぐ地中海に入ったが、風は涼しく、夜月はよし、波は静かで、琵琶湖で月見をしている様だ。気候はもう初秋の頃である、もうゆかた一枚では寒い、あい服を着て丁度よい位だ。ヒルはそれでも少し暑い時もあるが、何んと云っても九月だから、丁度日本のおひがんの様な心ちがする。
 ソヨソヨと風が吹いて、ポカポカと日が照って、甲板で作業をしているセーラーの姿を見ても、実にのどかである。地中海の水の美くしさは格別だ、碧い色は、見なくてはわからない美くしさだね。
 永い永い航海も、実にへど一つ吐かず健康のうちに、もうあと三日で終りを告げようとしている。
 日本ではカナリに心配をしていた熱帯の旅行も、思った程の苦痛ではなかった。ただタイクツだけが一番の苦しみだった。然し、林君や、硲君や、その他の連中が多かったので大変楽だった。

 九月十六日
 永い永い航海もあす一日で終を告げる事になった。
 クライストにも四十幾日間ものっていると、もう、自分の家の様な思いがして、別れるのが少し気の毒な様な気がする。然し早くパリへ着きたい。昨日から伊太利の沿岸を走っている。
 あすの朝八時頃にはマルセーユの港へ入るそうだ。
 今日の午後には、ナポレオンの流された、コルシカ島のそばを通過する。
 きのうは、エトナの噴火山のすぐ近くを通過して、噴煙の盛んな光景を見た。
 地中海はサザ波も無い静かさである。
 初めて伊太利の山を見た時は、丁度垂水の海から陸の方を見たのと同じ事だった。御影あたりから六甲山を見たのと同じ景色もあった。急に帰りたくなった。
 地中海の水の色は美くしい。イタリーのメッシナ海峡を通る時には、陸を走る汽車が手にとる如くに見えた。
 美くしい景色や、いい天気や、日本に似た景色を見ると、日本が恋しくなる。日本はやはり美くしい、デリケートないい国だと思うよ。
 あす、マルセーユへ着けば、すぐ到着の電報をうちへ打って、一泊の後ち友人三四人とパリへ夜行の一等車で行くつもりである。遠さは丁度神戸東京間位と思う。
 パリのステーションまで、美川君に迎いに来てもらうつもりだ。
 マルセーユから電報をうつはずである。
 もう日本を出てから、ずい分久しく日が経った様な気がする。日本の事がボ
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