うものは、例えば二科にしてもまず五〇銭の入場料さえ支払うと、日本全体の今年度の絵画の進歩、方向、その他一切の技術から遠くフランス画壇の意向から新柄のお土産にいたるまで、ことごとく眺めつくすことが出来るはなはだ便利な封切りものの常設館である。
 ここで秋の封切を一度観賞しておけば、若い男女は日本の芸術からフランスの芸術のことまでも一年間は有効に話の種として交際することも出来る。
 もし私が若い男だったら、やはり断髪の女性とともにあの会場を散歩してみるであろう。そしてピカソ、ドラン、シュールレアリズムは、といったことを口走りながらその無数の大作を私達の背景として漫歩するだろう。そしてその中の一枚を彼女へのお土産として買ってやるに少し油絵は高過ぎる。贈り物としてはもっと彼女が本当に喜ぶであろうところの、安くて美しいハンドバッグが銀座へ行けば並んでいるから。
 そこで私達は絵葉書と画集を買って、待たせておいた自動車へ埋まるかも知れない。道理で展覧会開催中、あの幾百枚の油絵の中で、何点が売約されるかを注意してみると、まったく驚くべき少数の絵が買われて行くに過ぎない。東京はまだいい、大阪での開催中において毎年一枚かせいぜい二枚の絵が売れて行くだけである。それも調べてみると何かの縁につながれた人情を発見するという現象だ。
 すると近代の画家は一年中、食物と戦いつつ若き男女の漫歩に適するハイカラなる背景を無給で製造しているわけでもある。何千人の人達が散歩してしまい画界の潮流を示してしまうと、すぐに引込めて、あとは画室の二階へ永久に立てかけておく。
 するとまずその五〇銭の入場料の配当によって役目を勤めた画家は多少救われるようにも見えたりするが、そううまくは行かない。帝展の如く素晴らしい入場者があっても、画家はまったく無配当であるらしい。ことにそれほど多くの入場者を持たない諸展覧会は、来年度の開催を保証されれば幸福と考えねばならない次第だそうである。
 さてまた画家の絵を作りたがる根性はまたいじらしいもので、如何にいじめられ望みを奪われ、金が無くともただ絵が描きたいという猛烈な本能の強さに引きずられて、われわれは仕事をしているために、決して画家はいかに条件が悪くとも、怠業したり示威的な行動を起こしたりはしない。何だって構わない。自分の一年中の仕事の封を切ってみせたくて堪らないのだ。誰
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