かの背景となりたくて堪らないのである。だから画家が不出品同盟とか脱退とかいって怒るのは、必ず鑑査に関する時か、自己の名誉、権力についての時ばかりだといっていい。それが芸術家の性慾だ。
 まったく画家の制作慾は性慾そのものよりも強い。性慾は制限すれば健康を増すが、画家から筆を奪うとじきに彼は神経病になる。
 さて油絵は金にも変化せず、見せたあとは永久に積み重ねるものとすると、勢い常設館での素晴らしき存在と人気が若き画家の常識ともなりがちだ。
 したがって絵画はその画面を近頃著しく拡大しつつあり、何物か不思議な世界を描いて近所の絵をへこまそうと企て、あるいは日本以上に展覧会と画家で充満せるパリでは、シュールレアリズムとかあるいは藤田氏の奇妙な頭が考案されたりするのも、無理では決してないだろう。日本の近代の絵にしてもが、どうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり、なおいよいよ発達するはずだと思う。
 かくして秋の大展覧会は野球場であり、常設館となって素晴らしい人気を博せば幸いである。私もまたなるべく大勢の婦人達を誘って近代的漫歩のために何回も訪問することに努力したい。
 しかしながら若くして野心ある画家は、空中美人大歓兵式でもらくらくと描きあげる勇気を持つが、もう多少の老年となれば、左様なことも億劫であり、若い男女の背景となるところの興味を失ってしまう。つい洗練された自分の芸術も出来上がり固まってしまうものだから、籠居して宝玉の製造をやり始めるが、情ないことには日本の展覧会は目下主として封切りもののための存在となりつつあり、漫歩の背景となりつつあるがために、この常設館のイルミネーションとともに老人の作った地味な玉も同居するのだから、はなはだそれはねぼけたものとなってしまいがちだ。いかに玉でも磨かざれば光なしという。玉を並べる飾り窓もまた必要だろうと思う。
[#地から1字上げ](「東京朝日新聞」昭和五年四月)

   挿絵の雑談

 よほど以前の事だが、宇野浩二《うのこうじ》氏から[#「から」は底本では「が」]鍋井《なべい》君を通じて自分の小説の挿絵《さしえ》を描いて見てくれないかという話があった。自分は挿絵は[#「挿絵は」は底本では「挿絵を」]全く試みた事がなかったが挿絵というものには相当の興味を持っていたし、小説家と自分
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