なると、この枕のみの鑑賞だから、したがってある形を整えたる落語の作品をしゃべるより以上に、漫談師の人格と心がそのままに現れてしまう。したがってよほど心もちのいい男の漫談でない限りは、ややもすると鼻もちのならない汚なさを放散する。
そこで私は漫談というものもおいおいと自作の勝手な漫談でなく、ある漫談名家の作を、例えば円朝師匠の何々を一席というふうに行う方がつまらない汚なさが現れず、聴衆の迷惑を軽くすることと思う。
だが、ともかく漫談師という専門家のものは、何といっても話術のコツは心得、その上音曲など交えたりして、ついわれわれをそのわけもない言葉で引きずって行き時間を忘却させもするが、重役や知事、助役、実業家達もするという漫談ぐらい迷惑なものはない。
その点では私はむしろ田舎の校長がフロックコートの色あせたるものを着用して、うやうやしき最敬礼とともに朗読するところの祝詞において、純粋な心をこめた田舎料理を御馳走になっているぐらいの心からの親愛と、本当の笑いが心の底から立ち上がってくることも感じる。
先頃もある知人の結婚披露宴に招かれた。すなわち実業家の大群で大広間は充満していた。
さて仲人のあいさつがあった後来賓総代が立ち上がった。その祝詞がもうやまるかと思っているにやまらないのだ。面白くもないのにだらだらと長びくところ、どうやら例のこれは祝詞的漫談のつもりであるらしいのであった。
気の毒なのは花嫁花婿とその両親達であった。だらだらととまらぬ電車に乗った漫談中は、直立不動の姿勢において立ちつづけておらねばならなかった。
私は、もしもこれが素人漫談大会ででもあったなら、もうよせよせぐらい野次ってもいいと考えたが、第一流の集まりの中では左様な無礼も許されない。
しかし私は浄瑠璃を夢中で一段語ってしまう天狗の心情も察してほほ笑むことも出来た。
さてこんな場合はやはり校長的風格を保ちつつ鹿つめらしく、そもそも今回の御結婚は御両家の、など申し上げている方が心からの可愛らしさがあっていいと思う。何しろわれわれは寄席へ集まっているのではないのだから、ちっとも笑ってみたくも何ともないのだ。
しかし、漫のつくものは漫歩、漫談、漫画、漫遊、漫筆等、肩のこらない気安さはあっていい。だが私はなぜか近頃ますます漫という字に臭気を感じだして厭になりつつある。
秋の大展覧とい
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