、私の考えではフランスの芸術の雰囲気があり、因ってボアイエーの画才を発揮せしめたものだと思う。
要するに、伝統ある国では正道の技術が空気の中に溶け込んでいるがために、従ってその空気を吸うている国民は皆知らぬ間にある程度の技術を知っているともいえる。
巴里は奈良漬の樽《たる》のようなもので、あの中へ日本人をしばらく漬けておくとどんな下手でも相当の匂いにまで到達する。日本の現代にはまだ酒の粕《かす》が充分国民全般にまで浸み込み行き渡っていない。従ってよほど本格的の勉強をやらないと相当の匂いをすら発散する事は容易ではない。
最近の雑感二つ
近頃、時々閉口さされるのは宴会とか何かの場合、その席上において重役とか、幹事、来賓総代とかいう男が、多少粋に気取ったつもりか何かでだらだらと長いあかだらけの漫談を一席試みることが流行することである。
大体漫談というものは散歩の如く目的もなく、歩むだけの性質を持っているところから本人が多少いい気になって、うれしがると自分でいったことを自分で感心してしまって自己陶酔を始めたりするので、来賓が皆あくびをしていても頓着なく、一人うれしく話を長びかせいつ終わるという見込みさえ立たなくなってしまうのである。
漫談には落語の如く落ちがない。でも話の終わりというものは、何か終わりらしい終局を見せねばならない。結び目なき話の尻は走ったままの電車であり、幕の閉まりそこねた芝居でもある。都合のいい時に幕を下ろす手練は来賓総代ではなかなか困難な芸当である。
昔は長い浄瑠璃の一段によって人を悩ました連中は、今や漫談という新しい武器を持って立ち上がった。
漫談師も罪なものを発明したものだ。大体本ものの漫談も私はその少量は聴いてみたこともあるが、どうもあれは落語の序文というと変だが、何でも枕というらしいが、あの枕ばかり並べたレヴューふうのもので、いよいよこれから、さてといって羽織を脱いで楽屋めがけて投げ込むところの、その話の本題がないところのものだという気がする。
私は名人の演じるある枕を本題の話よりも面白く聴くことがしばしばある。そのいいまわしやその枕の題材等によって、うまく人の心を本題の方へ引き寄せつつ浮世雑景を描くところに、名人の心を感じることが出来る。そしてこの枕のうちにこそ落語家自身の人格がもっとも著しく現れる。
ところが漫談と
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