完全な絵にまで、そして充分の芸術にまで到着して、今ではルオーとかユトリロとかいう格にまで並んでいる。
 大体|素人《しろうと》と玄人《くろうと》とは、どれだけの差があるのかというと、これはなかなかややこしいもので、小さい時から絵が好きで絵を描いているうちに勝手に上達して本職となってしまった人もあれば、本格と正道の絵画教育を順序を立てて習得して素描もうまく形も正確であるにかかわらず一向に絵としては面白くも何んともないものしか描く事の出来ない人もある。あるいは驚くべき画才を充分持ちながら別段自分が絵が好きでもないためについ実業家や医者となって一生を暮してしまう人もある。
 才能を持ちながらも絵をかく事を好まない人があり、才能がないくせに絵がめしより好きな人があり、技術を誰からも習得せずに才能が絵画を輝かしめるものもある。
 全く絵の仕事位割切れない、理窟《りくつ》通りに行かぬものはあるまい。正道もあてにならず邪道もまた必ずしも軽蔑《けいべつ》に値しない。
 しかし正道が人を殺す事はないので、殺された人間が正道よりも弱かったために過ぎない。
 大体において日本の現在の如き、洋画が発達の過程にある国ではまだ歴史が浅く古き伝統が日本の空気に溶解していないがために、全くの無技巧者が非常な芸術を生む事にまでは到達していないようである。
 日本にはまだ、全般に行きわたり人間に浸《し》み込んでしまうだけの洋画芸術に、歴史と伝統と雰囲気《ふんいき》が形成されていないが、西洋では、代々の遺伝と雰囲気が人種の中に浸り切り行き渡っている。そこで正道の技術を習得しない素人でも絵をかくと、ともかくもそれらしいものが現れてくるのが不思議である。
 それは徳川時代の普通人があるいは明治時代の奥様が、ちょっと何かの必要から半紙へ絵を描いた時、その人は絵はかけませんといいながらも描いて見ると、その線は直ちに徳川期の線を現し明治の匂《にお》いを表現する。
 私の母がよくらくがき[#「らくがき」に傍点]をした。その絵を私は今も二、三枚所持しているが、娘の図にしてもが全くの浮世絵の風格を備えている。
 現代の子供の自由画は現代絵画の縮図であり、現代学生美術展なぞ見ると現代諸展覧会に並ぶ日本の画壇の潮流をそのままに反映しているのがよく感得出来る。
 巴里の焼いも屋から現れたボアイエーの作品もそれも正道ではないが
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