底本では「この世へ」]出た以上はもはや魂だけのものではない。人間は五体を持った以上、人魂の如き自由自在は許されない。
 まあ、止むを得ず私は裏通りから成長したわけだが、それはどこでどう成長したのか記憶がない。この世の光景が少々意識された時にはB夫婦の家庭で、丁稚のような仕事をさされていた。

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 そんなわけから、両親を知らない私の神経からは子供らしさとか、明るさとか、甘えるとかいうことは一切引き抜かれていた。ことに甘えて帽子を買ってもらう、甘えて洋服を、甘えて玩具を、鉛筆を、ナイフをということはまったく出来なかった。そこで私は甘えずに買うより外に途はなかった。小間物屋であったその店には銭箱があった。売上げの二〇銭はその一〇銭だけを銭箱へチャラチャラと音高く投げ込んで「有難う御座います」とか「ようおいでやす」とかいっておいて残る一〇銭を懐中へ落とし込めば、相当の収益は得られたわけだった。ある時、ニッケルの光輝あるナイフとその他いろいろの玩具類が畳の上に並べられ、主人Bの前でうつむいている私をみたことがあった。私の裏町の幸福がずらりと表へ並べられたのだ。
 いつまでも父母に甘えることの出来る子供は、相当の年になってもなかなか熟さないものだが、甘えることの出来ない子供は何といっても感情的には独立しているから、強くかつ早熟だ。そして母に甘える代わりに広く一般の女性に甘えようとした。あえてしたわけではないが自然左様な傾向になって来たのだ。
 もっとも私が接近し得る女性といえば庭に働く女中達だった。女中の入れ替わりというものは私を妙に嬉しく興奮させた。女中のCというのが瀬戸内海の小島から来た。美しかった。ところがこの女が私の食膳をひそかに豊富にすることに努力してくれた。お菜の分量が急にめきめきと常の二倍に達した。私は感謝せずにはいられなかった。そして私ははじめておかずの注文を企ててCへ甘えてみるのであった。

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 店の間には丁稚のQと、女中のCと、そして私とが寝ることになっていた。丁稚のQは横になるとむしろ仮死の状態にあったから、店の小間物の類とみなしてよかった。そしてCは夏の夜の温気で、いとも輝かしき横臥裸女となり切っていた。ある夜のこと私は思い切って暗闇の中にそっと立ち上がった。心臓の血が一時に頭に向かって逆流した時、私は片隅にあ
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