ま煙となってしまったりするのを私は見る。
さような事件が、あまりしばしばあり過ぎたりすると、この自分の頭も何時《いつ》ぽん[#「ぽん」に傍点]という音と共に終りを告げるかも知れないし、また終を告げ損じて破れたるフィルムとなって生き残ったりしては、これまた怖《おそ》るべき事件でもある。
さてこれらの怖るべき惨禍が至る処に毎日起るほど、東京や大阪の市街は文明なのかと思って見るに、私はそうだとは思わない。
それは未開地であるが故に起るところの惨事ばかりだといっていい。訓練不足の民衆と、乱雑不整頓、無茶苦茶の都会交響楽であり、飛鳥山《あすかやま》の花見の泥酔の中で競馬が始まった位の混乱だ。
だから、日本の交通巡査位骨の折れるものも少いだろう。彼らは手を打ちふりつつも群衆を教育しつつある。その白い手袋の運動を剣劇の興味を以て、丁稚《でっち》小僧の大勢がぼんやりと自転車を抱えながら眺めている。そのファンであるところの彼らを「コラッ何をぼんやり立っとるか」と叱《しか》り飛ばさねばならぬ。その間に一台の猾《ずる》いタクシーが白線から飛び出したがために叱っておく必要がある。叱っているうちに、参詣《さんけい》すべきお寺について相談している婆さんの五、六人が、電車とバスの間に挟《はさ》まれてうろうろする。それを救助して電車へ押込まなければならぬ。それを私が眺めていてついでに叱られたりもする。
私は時々、この多くの自動車やその他の動くものの中で、何に轢殺《れきさつ》されたら比較的|悔《くや》しくないかを考えることがある。ヒョロヒョロと飛び出す自転車の如きごまのはい[#「ごまのはい」に傍点]はけち臭くて厭《いや》だし、リヤカアの類は軽率だし、自動車なら多少|我《が》まんが出来るかも知れないが、それに乗っている男の事が気にかかる。即ち毛ずねを現わして芸者にもたれかかっていたりでもすると、これはうっかりやられては死に切れないと思う。といって、自家用の光輝ある高級車もいいが、乗っている主人の顔を見ては死ぬ気にならぬ。素晴らしい美人ならあるいはどうか知れないけれども、それが何々の重役、何々博士の愛妾《あいしょう》ででもあったりしてはやり切れない。
あるいはバスか、トラックか、もうろうタクシーの方が死ぬにはむしろ気楽でいいかも知れない。なまじっかな見舞金や香奠《こうでん》の金子《きんす》
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