はちょっと見たところは、さも西洋出来のもののように見せかけてあった。
近頃は玩具に限らず、何によらず舶来品の如く見せかけてあるというものが、めっきりと多くなったようだ。ついこの間までドイツ製で見かけたと思うそれと殆ど同じ形のものが、日本製となって現れていることがしばしばあるのだ。じっと見るとどこか間が抜けていて、すっきりとはしていないのである。買って帰るとぜんまいがきかなかったり、車がとれたり、走らなかったり、種々様々の故障が現れてくるのである。
私たちは何も好んで舶来品を欲しいとは思わないのであるけれども、舶来品には、この自動車に現われた如き情けない悲劇は起こらないからうれしいのである。どんなに安ものの玩具一つでさえも、そこに非常な親切と科学的な考えとが結びついているのである。
それとも一つ西洋出来の玩具のいいところは非常に写実的であることである。子供の頭は自分の好きであるところのものに関しては、大人などよりも随分写実的である。例えば東海道線を走る大型の機関車の形はどうであるとか、その機械の部分についても驚くべき知識をもっている。その他電車の形、その車輌の状態、あるいは飛行機についても同様である。
大人の多くはそんなものに興味を持たないために、うっかりとしている。日本の大人で機関車の形がちょっとでも描ける人があるかどうか。日本の玩具屋のおやじなどもその一人だ。
西洋の玩具はこの子供の要求をまったくうまく容れているのである。ちょっとした汽車の形において日本の玩具製造者が到底発見出来ないところの形の写実が、うまく簡単に行われているのである。それで子供がそれを欲しがるのも無理はないのである。
私たちが子供をつれて三越の玩具部とか、その他の玩具屋の前へ立った時に、どっさりと並べてあるところの日本製のブリキや、木造の汽車を見る。その車輪は申し合わせた如く、荷車か何かの如く、車体よりもはるかに外方へ出張っているのだ。そしてその形といえば到底、汽車のかすかな感じさえも出ていないので、少し頭の進んだ現代の子供は、決してそれを欲しいといわないのである。そしてガラスの戸棚の中に陳列されているところの舶来品の、さも汽車らしい汽車を、夢に見るほどの熱をもって欲しがるのである。子供は正直である。和製は安くもあるし、日本の貧乏のため国産奨励のため一つ不便と不愉快を忍んで、この嫌な
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