木製の荷車のような汽車で辛抱しようとは、決して思ってくれないのだ。私は大人でもこの木製の方は嫌だと思う。
 しかしながら近頃は日本品が舶来品に負けないということを知らしめるための展覧会が、時々大いに催される。
 そんなことからでもあるのか、近頃は玩具に限らず雑貨にしろ、洋菓子にしろ何によらずその体裁と外形だけはさも舶来品らしく模造し出したので、ちょっと見たところはさもよいものであるらしく見えたりするのである。
 なるほど展覧会というものは見たり眺めたりするだけのものだから、その見かけだけは劣らないようにと心がけが発達して来たものかも知れない。ついでに手に取って使ってみても劣らないものが出来ればいいのだが、そんな時代は次には来るものとしても、ともかく今の時代の子供はまだまだ不幸である。
 ついでに日本で一般にケーキと呼ばれて広まっているところの菓子のまずさと、西洋菓子屋の店頭に並べてあるところのリボンのかかった美しい箱入の洋菓子の味なさかげんを嘆じてこの稿を終わる。
[#地から1字上げ](「美之国」昭和二年一月)

   尖端の埃

 古色を帯びたる活動写真、飛行機、自動車のエンジン、パラソルなどはあまり好ましくない。完全にいえばパラソルは一年限りのものであり、自動車は今年の型、活動写真のもつ最高の感激性は最初の封切りにおいてのみ存在する。どんなに面白い映画でも三回以上同じものを見る気はしない。やくざなものはただ一回で焼き捨てるべきだとさえ思わせる。
 その点では、歌舞伎とか浄瑠璃《じょうるり》とか、西洋音楽においてでも、同じ狂言、同じ曲を幾度観賞しても、いいものは相当の興味がある。それは幾度見ても全く同じという事が絶対にあり得ないからだろうと思う。場所が変り、役者が変り、同じテナーでもその日の機嫌《きげん》があり、あらゆる微細な点では悉《ことごと》く常に同じではないだろう。ところが活動写真位完全に同じことを繰返すものはあるまい。それこそ、あの辺で松の葉が風で動くといえばいつ見ても必ず動くし、波の数とその波の寄せ方から、庭の小石の数に至るまで完全に同じ事だし、勿論《もちろん》役者は変らないし、一挙一動は波の数と同じく同じ事を繰り返す。そこに無限の退屈は生れてくる。
 要するに、科学的な近代芸術は映画、自動車の美しさと同じく、いくらでも作って早く見て早く捨てる処に、尖端
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