子供ぐらい動くものに興味を持つものはない。球の運動、機関車の進行、軍艦の煙、等々。そして現代では新鮮にしてもっとも動くところの芸術は活動写真である。ところがどうだろう、この明るく新鮮な、動く芸術の世界は学生と子供からまったく閉鎖されているのだ。そして子供には内密で大人ばかりで雑談に耽り、猥談に遊んでいる。
 私はキートン、チャップリン、ロイドあるいはコンクリンの喜劇あるいは実写ものニュースの類、山岳、飛行機については子供とともに朗らかに笑いあるいは説明し、ともに感心してみたりも出来る。だがあのスクリーン一杯のクローズアップの人相の悪い不愉快な男が髪を乱して刀を抜いて大殺人をやるところはいかにも自分の子供とともに悦んで見ているわけにはいかない。これこそ、心ある者は子供の世界から閉鎖するのが当然である。それにしてもチャップリンが持てる童心やキートンの童心に私はいつも感服している。
 まったくせめて一つや二つの子供に対する完全な常設館と、映画があってもいいと思う。光と、運動と、科学を極端に生かすことの出来る新鮮な芸術を、子供から遠ざけていることはまったく残念で不幸なことだ。私は何にしても子供と、家族とともに太陽の下で朗らかに笑いたい。
[#地から1字上げ](「大阪朝日新聞」昭和五年八月)

   国産玩具の自動車

 玩具屋のショーウィンドに、かなり立派に見えるところの玩具の自動車が並べてあった。私の子供は、それを以前から買ってくれ買ってくれといっていたので、とうとう買ってやった。子供は大喜びで家へ帰ると、すぐさま箱からとり出してぜんまいをねじろうとすると、その肝心のぜんまいが駄目になっているのであった。早速よいのと取りかえにやったところが、今度はおよそ半日ばかりたつと車の心棒がぬけてしまった。そのぬけた個所をよく見るに、なるほどぬけるのが本当であると思える位ぞんざいな細工がしてあるのだった。ところで半日も経過しておまけに二度までも取りかえに行くことは随分おかしな話で、玩具屋も承知しまいと思ったからついそのままにしてしまった。子供の悦びは半日で消滅したわけだ。
 こんなことは日本製の玩具には常にあることだから珍しくはないが、まったく子供のためにも可憐そうでならない。せっかく楽しんで持って帰って、さて遊ぼうとするとすぐさま用をなさなくなるのである。
 ところで、この自動車
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