ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和四年六月)

   亀の随筆

 近代の看板は、主としてペンキ塗りである。それは変色しやすく、剥《は》げやすい、しかしそれで構わないので、剥げたらまた塗るだけの事である。この目まぐるしい近代の街景にあっては地味にしてお上品なものは人の目には止《とま》らない。特に円《えん》タクの窓からの走りながらでは、よほどのものでない限り人目をひかない。何かなしに近ごろは、人の頭を撲《なぐ》りつける位いの看板を必要とする。電燈の明滅の如きはちかちかとして小きざみに通行人の神経を撲っているのである。
 最近のドイツあたりから来る新しいポスターにしてもがさようである。あの表現派風の円や棒、立体、縞《しま》等を配置する処の一見驚くべき大柄である処のものは皆、人の頭を撲る役目を勤めているのである。
 ちらと見た瞬間に了解出来る看板は近代における重要な看板である。
 ところで、昔の看板はさようではなかった。子守《こもり》や丁稚《でっち》が、あるいは車屋さんが車上の客と話しながら、珍らしい看板にはゆったりと見惚《みと》れているという有様であった。
 従って、ゆっくり観賞出来るだけの手数のかかった看板が多かった。
 ペンキのなかった昔は、看板は立派な木材が用《もちい》られ、そして彫刻師によって、書家によって、あるいは蒔絵師《まきえし》の手によって工夫されているものが多い。
 今の大阪では古風な家は改築され、取払われ消滅しつつあるが故に、三十年前の旧態をそのまま止《とど》めている商家もまた少くなり、面白い看板もだんだん姿を消して行くようである。しかしまだ、高津の黒焼屋の前を通ると、私は私自身の生れた家を思い出す。それから船場《せんば》方面や靱《うつぼ》あたりには、私の幼少を偲《しの》ばしめる家々がまだ相当にのこっている。
 現在の堺筋《さかいすじ》は殆《ほとん》ど上海《シャンハイ》の如くであるがその島之内に私の生れる以前からぶら下っている足袋《たび》の看板が一つ、そしてその家は昔のままの姿で一軒残っている。
 それから、私は町名を忘れたが今もなお木彫である処の古めかしい河童《かっぱ》が屋根からぶら下っているのを見たことがある。グロテスクで気味悪いくせにちょっと見たい気のするものである。
 私の生れた家は堺筋にあって、十年以前まで存在していた。先祖代々が古めかしい薬屋であるがために、家の店頭はあらゆる看板によって埋まっていた。今でも記憶にあるものでは急活丸という舌出し薬の看板である。藪《やぶ》医者のような男の半身像が赤い舌をペロリと出しているのである。それからライフという当時ハイカラな名の薬の看板はガラス絵だった。痩《や》せた男が臓腑《ぞうふ》を見せて指ざしている絵だった。その他、様々の中で最も手数のかかった大作は、何んといっても、私自身の家の膏薬《こうやく》天水香の亀《かめ》の看板であった。
 それは屋根の上に飾られてあった。殆ど一坪を要する木彫の大亀であった。用材は楠《くすのき》である。それは地車の唐獅子《からじし》の如く、眼をむいて波の上にどっしり坐り、口を開いて往来をにらんでいるのであった。
 そして、私の店には、一畳敷あまりの板看板が黒い天井から下っていた。それには三社御夢想、神位妙伝方と記されてあった。
 その中で生れた私は、人間というものは、誰でも生れると、何かなしに、頭の上に亀がいるもので看板の中に住んでいるものだと考えていた。そして、人間は膏薬を売っているものだと思っていた。ところが少しもの心づいて来るに従って亀は私の家の看板で、薬屋は自分の家の商売だということがわかって来た。しかしその膏薬は何に効験あるものかという事は全く、十七、八歳に至るまで、私は本当によく知りもしなかった。
 ただ私の店へ毎日参ってくる大勢の客はすべて腫物《はれもの》の出来た人であり、あるいは妙な処へ負傷した人のみであった。とにかく私は私の家が何屋さんで父は何をしているのか、屋根の亀は何んのまじない[#「まじない」に傍点]であるかについても永《なが》い間全く無意識だった。
 ところで私が中学へ通い出した時分頃からしばしば訊《き》かれたものである。君の家の亀はいつごろから存在するのか、その薬は何に効《き》くのか、香水か、それとも線香か、私は随分その答弁に悩まされたものであった。さあ、俺《おれ》が生れると既に亀が往来をにらんでいたのでよく知らんといって置いたが。しかし私も気にかかるので先代からの古い番頭に訊《たず》ねて見たり父に問うたりして見たが、皆はっきりしたことは知らないらしかった。番頭の音七は何んでもあんた、あれは親|旦那《だんな》の親旦那のその親旦那の時分によその古手を買いはったもので、その以前はやはりある薬屋の看板やったといいますというのだ。そして私の知っているのでは、島之内焼けという大火事の時に何んと火の手が、隣の豊田はんまで来た時に、急に風むきが変って、あんた妙なもんや、私とこはそのままに焼け残ったもんだす。あまりの不思議に天水香の亀が水を噴《ふ》いたというてえらい評判だした。と彼は常に私に吹聴《ふいちょう》するのだった。それから、明治の始めには、ある毛唐《けとう》があの亀を売ってくれといって来たという話も屡次《しばしば》していた。その時あの亀の目玉にはダイヤモンドがちりばめてあるのだという風評が立った。勿論、あれだけの大きな眼球がダイヤモンドであったら、私自身は今ごろ、どんな道楽息子になっていたか知れない。幸いにしてガラスであり、その中に綿が入れてあったから、私は画家《えかき》位で収まっているのである。
 しかし、西洋人としては、亀の眼球はどうであろうとも、ある東洋的なほりもの[#「ほりもの」に傍点]として、ほしがったということは事実であったことかも知れない。
 とにかく、この荘厳な亀は看板としてはかなり人の注意を惹《ひ》く事において成功していたものに違いなかった。堺筋の亀の看板というと車屋でもヘイヘイといって直ぐ走り出したくらいである。そしてそのグロテスクな相貌《そうぼう》は、よほど近所の子供たちにとってはおそろしいものの一つであったと見えて母や子守や父親が、泣いている子を私の家の前へ連れて来て、「それ見なはれ無理をいうと噛《か》みまっせ噛ましまよか、さあどうだす」といっておどかしているのを私は常に店番をしながら眺めていたのである。
 その亀は楠で作られてはいるが、永年の雨露にさらされ、頭だけは早く朽ちてしまうために、私の家の二階の納屋《なや》には古い頭が二つころがっていた。
 彫刻師が誰であったか、何もかもが不明である。私の先祖の自伝の中にもこの亀については記していない処を見ると、あまり問題にもしていなかったのかも知れない。古い出ものがあったから看板によかろ、大きいから屋根へ上げて置けといっていたのかも知れない。
 ところで近代の堺筋は外国の如くである。亀の住むべき屋根を奪ってしまい、長男の私を油絵描きにしてしまった。
 私の弟が私に代って家伝の薬を継承してくれたことを私は心から感謝していいことである。最近、その亀は、下寺町の心光寺の境内に居候《いそうろう》していたのだが、その心光寺の本堂が三、四年前に炎上してしまった。しかし不思議にもその亀のいた庫裡《くり》は幸いにして焼け残ったのである。この現代ではまたもや亀が水を吐き出したのだと吹聴しても誰も本当にはしないであろう。
 近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝《だいちょう》の鍋平朝臣《なべひらあそん》、一日、私に宣《のたも》うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸《ようや》くこの養老院において、万年の齢《よわい》を保とうというのである。

   奈良風景

 新緑のもとに女鹿が子供を連れて遊んでいる。何という絵らしい情景だろうと思って眺める。
 しかし私はしばらく奈良に滞在して、朝夕鹿と交際をしてみた。そして鹿というものは最初見た時は大変愛すべく、やさしい動物に見えるけれども結局、それは記憶力の欠乏せる忘恩の、ずうずうしい、食いしんぼうの、強いものに対しては弱く、弱いものにはすこぶる強く出るところの小癪に障る奴であることに気がついた。
 奈良の小学生達は大概、初夏の頃になると女鹿をおそれてなるべく避けて通学するのを見る。何故女鹿が怖ろしいかというと彼女は大切の赤ん坊を連れているからである。いやに神経を尖らせて注意深く周囲を眺めながら、多少足を踏ん張る如く力強く歩いている彼女は、大概子供を連れているか、あるいは近くの木の根や草むらに幼児を隠している。そして強そうな大人に対してはあまり向かってこないが女、子供、子守、老婆、幼児に対してはまったく威力を持つ。彼女は不意に背後からその両足を高く挙げてわれわれの肩を打つのだが、大概のものは一度で倒れてしまう。私は散々その足蹴にされている女や子供を見た。奈良公園の車夫どもは長い竿を持って彼らを追うのだが、もし誰も救うものがいなかったなら、半死半生の目にあうかも知れない。
 鹿はしばらく倒れたものを眺めていて決して去らない。逃げようとして起き上がると再び足で踏むのだがその堅い足はまったく金槌位の痛さはあるだろう。そんな場合、死んだ真似をしてしばらく寝ているに限る。すると鹿は強いギャロップ勇ましく悠々と引き上げて行く。
 五、六月、青葉の頃には日に何回となく私は人の悲鳴を聞いたことさえある。ある時は家族づれのうち老婆がやられた。老婆は倒れながら自分の腹の下へ孫を隠した。鹿はその上に乗りかかって両足で敲いているのだった。大勢のものが駆けつけたので鹿は去ったが、その家族は遊びをやめて帰ってしまった。その後老婆は発熱して四、五日寝たということだった。
 ある朝、私が顔を洗っていると宿の人が呼びに来た。今、鹿が産気づいています。早く見に来なさいというのだ。私は産というものは一切見たことがなかったので、早速見物に出かけると鹿は近くの馬酔木のかげへ寝て、眼に苦悩を表していた。なるほどその腹は波を打っていた。
 大よそ[#「大よそ」は底本では「およそ」]二〇分ばかりすると、鹿は急激に立ち上がって四つの足をふん張った。すると何か透明な水がさっと一升程も飛んだかと思うと、やがて黒い風呂敷包みの如きものがどさりと草の上へ転がったものである。鹿はその風呂敷を丁寧に食べてしまうと、その中からもっとも新鮮にして小さな鹿が現れ、その斑点はことに鮮明で美しく、ぱっちりと眼を開いて珍しい新緑の世界を眺めるのだった。
 私が不思議に打たれてぼんやりとしているうちに、子鹿はヒョッコリと立ち上がり、親の後ろへ従って早くも歩いて行くのである。
 私はその簡単さに驚いた。春日神社へ行くと安産のお守を売っているがなるほどと私は感づいた。
 男鹿がその威力を現すのは何といっても秋の交尾期だ。夜も昼も森の中で彼は叫び通して異性を呼んでいる。それは相当悲しむべき声である。そのもっとも大にして年経たものはすさまじき酋長の面構えで、多くの女鹿をしたがえて威張っている。
 彼はこの季節になると軒に干してある手拭い、風呂敷、ハンカチーフの別なく何によらず時にはバケツでさえも彼の角をもってさらって行く。そしてどうするのかといえば、それを彼の巨大な角の先へ巻きつけて、女鹿の前をその勇壮な姿において行進して見るのである。それは新調のネクタイを彼女に見てもらい、学生がわざわざその帽子を破り、画学生がブルーズを汚すのとほぼ同じものらしいのである。なお彼は水溜りの中へもぐり込みその泥を全身に塗りつけて、とても手荒い相貌を製
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