てこずりときまると、今度こそはとまた次の仕事の暗にふみ迷うのであります。
昔の名工の話などにはしばしば、仕事のうちは女をつつしみ、沐浴して神に祈るようでありますが、まったくその仕上げについて一生懸命であればある程、こんな有様とならざるを得ません。だから今もなお役者、相撲取、博奕打ち、相場師、泥棒、芸妓、など一寸さきの気にかかる商売をするものに迷信家が多いようであります。
[#地から1字上げ](「美の国」大正十五年三月)
蛸の足
男のズボンの膝《ひざ》が出ているが如く日本女の膝は飛び出している。幼時から折り畳んでばかりいたのでさようなくせがついたのだろう。しかし近頃はだんだんと足は延びつつ短かいスカートから現れ出て来た。
ところで、その現れ出した足の発散する誘惑は昔のくの字型に比して著るしいかというと、私は決してそうとは思わない。
近代の足はすでに、顔であり、手の一種である。その上、皮膚そのものの露骨さを、手袋の如く、うすき絹を以て包んでいるが、昔のくの字は、重く厚き裾《すそ》の中に隠れていながら、かの浮世絵に見る如く風に翻える時、むしろ深刻なものを発散すると私は考える。
先ずどちらにしても、古今東西、足が誘惑する事において変りはない。
先ごろ女中のお梅が市場へ蛸《たこ》を買いに行った時、なるべく足の沢山あるのを下さいといったら魚屋のおやじが、蛸の足は昔から八本ときまってますと答えた。随《つ》いて行った私の子供が帰ってから、皆にこの事を話したのでわれわれは笑った。しかし、お梅の弁明によると、蛸の足は決して常に八本|揃《そろ》ってはいないというのであった。買って帰ってよく調べて見ると、往々にして一、二本不足している事がごわす[#「ごわす」に傍点]というのだ。
なるほど、蛸もあの素晴らしき足の八本を裸のままで見せている事は真《まこと》に危険だと私は思った。全く、いつ何時《なんどき》、如何《いか》なる災難がふりかかるか知れない。砂地の上で昼寝のせつ、猫にたべられた話もある位いだ。
蛸に意識があったら必ず靴下と猿股《さるまた》をはくであろう。
それにしても、毎日市場へ通うものは、またその道に通じて、蛸の足は常に必ず八本ではないということを知るに至る。するとわれわれ笑ったものは蛸に関しては素人《しろうと》であった訳である。
私の愛猫《あいびょう》フク子もまたこの足に迷って死んだ。或夜、裏長屋から一本の蛸の足を盗んで帰る途中、長屋の井戸の屋根が腐っていたため、踏み外《は》ずして落ち込んでしまった。その時彼女は臨月だった。
そのもの音に驚いた車屋のAが寒いのに飛び出して、つるべによって助け上げようとしている時、四、五日前から喧嘩《けんか》していた仲仕《なかし》の細君がまた飛び出して来た、そこで互に感じが悪いというので二人とも家へ引込んでしまったために、その翌朝フク子は蛸の足と共に浮き上っていた。怖《おそ》るべきは足の誘惑である。
もっさりする漫談
関西には形容すべき言葉にして、特に訳のわからない複雑な感情と意味を含む処のものがかなりあるようだ。例えばややこしい[#「ややこしい」に傍点]とか、ぞけている[#「ぞけている」に傍点]、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]、しんどい[#「しんどい」に傍点]、もっさりしている[#「もっさりしている」に傍点]、はでな事[#「はでな事」に傍点]とかいう風な言葉である。勿論《もちろん》日本の標準語の中へは這入《はい》りそうにもない地方的なものではあるが、慣れているわれわれの中ではそれらの一語で何もかもがいいつくせるので、大変便利だから変だとは思いながらもつい使ってしまうのである。
ややこしいという事を東京流に翻訳して見ると、この語の中に含む真のややこしさを表すだけの適当な言葉が見出せないのである。その意味は複雑というだけでもなく、ごたごたしているというだけのものでもない。西だか東だかあれかこれか、ほしいのか厭《いや》なのか、甚《はなは》だもつれている処の、こんがらがった意味があるのである。まだその他あの男女の間が頗《すこぶ》るややこしい[#「ややこしい」に傍点]とかこの品物が本ものか偽物か甚だややこしいとかいう事もいえるのである。怪しげな男の事をややこしい男ともいう。あるいは六つかしき事にも用い、恋愛が破れかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]と称し、成立しかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]という。あるいはいいのか拙《まず》いのかわからぬが多少下手に近い絵の前へ立った時、ややこしい絵だとも評するし、髭面《ひげづら》の気ぶしょうな男の顔を見てややこしい[#「ややこしい」に傍点]顔してますといったりする。
ぞける[#「ぞける」に傍点]、というのは、もう月経も閉止する時分であるにかかわらず、急に何を感じてか、赤い襟《えり》をかけ出したり、急に素晴らしいネクタイをつけたり、禿頭《はげあたま》へ香水をふりかけて見たりし出した時に用うべき言葉である。近頃彼は急にぞけ出した[#「ぞけ出した」に傍点]とかいう。
しんどい[#「しんどい」に傍点]とは、全くくたびれたという上にもっとなまぬるい複雑性が入り込んでいる処の、もっと軽い意味の、そしてどこかに深刻味のある、微妙なくたびれの心もちであり、一種のびやかな漫然としたつかれ心地を表すためにああしんど[#「ああしんど」に傍点]とかしんどうてたまらぬ[#「しんどうてたまらぬ」に傍点]とかいう、これも東京ではどんな言葉でいい表していいか私には見当がつき兼ねる。
もっさりする[#「もっさりする」に傍点]という言葉は、何んでも本筋のものでなく田舎風で野暮《やぼ》でそのくせ気取っている処の、しかもしゃれてはいない処の、上等でもなく、美しくもない、多少きざに見える処の、何かゴタゴタして垢抜《あかぬ》けのしないものを指《さ》してもっさり[#「もっさり」に傍点]しているという。
もっさりしたマチス[#「もっさりしたマチス」に傍点]といえば素描の力と認識不足のものであり、省略すべき処を略せず、拾うべき処を取落してしまった処の、垢じみてすっきりしない処のマチスかぶれの絵という事である。丹波篠山《たんばささやま》生れの鴈治郎《がんじろう》と熊本県人の羽左衛門《うざえもん》もまた、もっさりした種類と見ていい。
もっさりしたヴラマンクといえば、大体右と同じ傾向のもので即ちヴラマンクに似てはいるが本当のヴラマンクがその絵を見たら恐縮して風邪《かぜ》を引くであろう処のどす黒赤き拙劣な絵という事になる。その他もっさりしたシャガール、ボンナアル、ブラック等この言葉を上へ戴《いただ》くいろいろのものは現代日本には殊の外多いようだから特に重宝な言葉であるといっていい。
しかしながら、本当の田舎の、さも田舎らしくある処のものに対しては、このもっさり[#「もっさり」に傍点]という言葉はあて嵌《はま》らない、田舎で本当にさも田舎らしい女や男や料理に出会った時、それをもっさりとはいい得ない。それは、田舎の本筋のものだからかえってすっきりとしているのである。要するに田舎ものが、第一流のしゃれものを真似《まね》て手のとどかぬ時にもっさりが起ってくるようだ。
うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]と言う言葉は、用い処はほぼもっさり[#「もっさり」に傍点]と似ているが、も少し陰鬱《いんうつ》であり深刻な味を有《も》ち多少のうるささ[#「うるささ」に傍点]を持つ。うっとうしいお天気というのは普通だが、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]顔するな、うっとうしい奴が来まっせ[#「うっとうしい奴が来まっせ」に傍点]、そんなうっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]事は嫌だ、うっとうしいマチス、うっとうしいヴラマンク、等に使って差支《さしつか》えない。もっさりした何々よりも今少し下卑《げび》て悪性のものにして下手さも深刻である場合にこの言葉が適用される。
芸術家の髪、長く垢《あか》じみて、親の金で遊んでいるくせにわれわれプロはという時、甚だうっとうしく[#「うっとうしく」に傍点]なりがちであり、あるいは男のくせに妙に色気を肢体《したい》に表してへなへなする時、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]男となるものである。その他うっとうしいズボンといえばモダンボーイの事であり、うっとうしい頭といえば下手《げて》で大げさな耳隠しともなる。
その他、絵かきさんと心安くなるのも結構ですが、いらぬ絵を持ち込まれるのがうっとうしゅう[#「うっとうしゅう」に傍点]てという言葉もしばしば聞かされる事である。
うっとうしいに対してはでな[#「はでな」に傍点]という言葉もある。水死美人が浮上った時、はでな[#「はでな」に傍点]もんが浮いてまっせという。八百屋《やおや》の女房が自転車に乗って走ったらはでな仕事[#「はでな仕事」に傍点]となるし、百号を手古摺《てこず》ってナイフで破ったといえばはでな[#「はでな」に傍点]事をしたと感心してもいいのである。とにかく関西にはかなり便利で意味深きなおかつ深刻にしてユーモアの味を含めるいろいろの言葉のある事を私は面白く思い、ちょっと紹介したまでである。
ノスタルジー
1
私は画家き[#「画家き」は底本では「絵描き」]である、したがって絵でものを現すことは比較的らくに出来るが、同じものを文章で現そうとすると随分の苦労を感じる。
例えばある男が腹を切っている形を絵で描けば、人はなるほど切腹していると思ってくれる。そして凄いとか、いやらしいとか、あるいは線が美しいとか、何とか勝手に思ってくれればそれでよいので別段切腹に前後の解説をつける必要はない。観者が何と感じてくれてもそれは勝手であって画家の仕事はそれですんで行く。
ところで文章の場合では、前後の関係もなくただ唐突に切腹したと書いてみただけでは、一体何が切腹したのかわからない。も少し詳しい説明がないと合点がいかない。一体誰がどんな顔をして、どんな原因からどこで腹を切ったのか、そしてそれからそのあとはどうなったか、由良之助は臨終の間に合ったかどうかということまで気にかかって来る。随分うるさく説明してようやく切腹が多少明瞭になってくるのである。
切腹を一枚の絵で片づけることに馴れている私達の神経ではまったく原因、道筋、苦労、結果等を洩れなく整えて説明したり、穿鑿したりする文章の仕事は随分骨が折れることである。時には神経が衰弱するおそれさえ伴うように思えて堪らない。
自分で文章をかくこともかなり辛いが他人のものを読むこともかなり辛い。私はまず短いものなら何とかして読むこともあるが、一冊とまとまった書物はどうしても読み得ない。したがって他人の創作なども殆ど読んだことがない。
私は私の親しい小説家の小説でさえ読んだことがなかったりして、時にははなはだきまりのよくないことに出会うことさえしばしばある。
何しろ画家は一目で観賞することにのみ馴れ切っている。まったくどんな大作でも一寸[#「一寸」は底本では「ちょっと」]四角のミニアチュールでも要するに一目でわかる。展覧会で二千点の絵を鑑別するのに三日間を要するだけである。もし二千巻の論文を鑑査することであったら、それにはどんな方法があるのか、私には想像もつかない。怖ろしいことだと考えられる。
その点、活動写真は大変われわれにとって便利なものだと思う。絵の連続であって文章の代用にもならないことはない。最近私は知らぬ間に、かなりの活動写真愛好家となりつつあるようだ。しかしそれはよくよくいいものでない限りは往来を散歩している方が幸福ではあるけれども。
2
私は子供の時分から退屈をすると、よく戸棚やひき出しや本箱を掃除する癖がある、そして古めかしい煙管のがんくびや昔のかんざしの玉、古物の箱などを探し出して悦ぶのだ。時には思わぬ掘り出しものをすることがある。
近頃でも私は退屈すると物置へ入っ
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