から私は大阪人の講演では、大阪落語だけ聞く事が出来る。それは本当の大阪弁を遠慮なく使用するがために、話が殺されていないから心もちがよいのである。

 ある、いろいろの苦しまぎれからでもあるか、近頃は大阪弁に国語のころも[#「ころも」に傍点]を着せた半端《はんぱ》な言葉が随分現れ出したようである。
 例えば「それを取ってくれ」という意味の事を、ある奥様たちは頂戴《ちょうだい》という字にいんか[#「いんか」に傍点]を結びつけて、ちょっとそれ取って頂戴いんかといったりする。
 勿論《もちろん》こんな言葉は主として若い細君や、職業婦人、学校の先生、女学生、モダンガアル等が使うようである。
 それから「あのな」「そやな」の「な」を「ね」と改めた人も随分多い。「あのね」「そやね」「いうてるのんやけどね」等がある。
 少し長い言葉では「これぼんぼん、そんな事したらいけませんやありませんか、あほですね」などがある。
 これらの言葉の抑揚は、全くの大阪風であるからほとんど棒読みの響きを発する。従ってこれというまとまった表情を示さないものだから、何か交通巡査が怒っているような、役人が命令しているような調子がある。多少神経がまがっている時などこの言葉を聞くと、理由なしに腹が立ってくるのである。もし細君がこの言葉を発したら、到底ああそうかと亭主は承知する訳には行くまいと思われる位だ。「あなた、いけませんやないか」などいわれたら、何糞《なにくそ》、もっとしてやれという気になるかも知れないと思う。妙に反抗心をそそる響をもった言葉である。
 こんな不愉快な言葉も使っている本人の心もちでは決して亭主や男たちを怒らせるつもりでは更にないので、あるいは嘆願している場合もある位である。嘆願が命令となって伝わるのだから堪《たま》らない。
 笑っているのに顔の表情が泣いていてはなおさら困る。
 葬式の日に顔だけがとうとう笑いつづけていたとしたら、全く失礼の極《きわ》みである。何んと弁解しても役に立たない。
 もしこの言葉と同じ意味の事柄を流暢《りゅうちょう》な東京弁か、本当の大阪や京都弁で、ある表情を含めて申上げたら、男は直ちに柔順に承諾するであろうと考える。
 全く、気の毒にも、今の若い大阪人は、心と言葉と発音の不調和から、日々|不知不識《しらずしらず》の間に、どれだけ多くの、いらない気兼ねをして見たり、かんしゃくを起したり、喧嘩をしたり、笑われたり、不愉快になったり、しているか知れないと思う。

 ところで私自身が、私の貧しい品格を相当に保ちつつ、何かしゃべらねばならない場合において、私が嫌がっている処の大阪的な国語が、私の口から出ているのを感じて、私は全く情けなくなるのだ。自分のしゃべっている言葉を厭だと考えては次の文句はのどへつかえてしまうはずである。それでは純粋の東京流の言葉と抑揚を用いようとすると、変に芝居じみるようで私の心の底で心が笑う。全くやり切れない事である。つまらない事で私はどれ位不幸を背負っているか知れないと思う。
 それで私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べ得る処の、本当の大阪弁を使わしてもらうのである。すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと湧《わ》き出してしまうのを感じる。
 私は、新らしい大阪人がいつまでもかかる特殊にして半端な言葉を使って、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困っているのが気の毒で堪らないのである。あるいはそれほど困っていないのかも知れないが、私にはさように思えて仕方がないのである。

   主として女の顔

 電車の中へ、若い女が新しく立ち現れた時、大概の女客はまずその衣服を眺めるけれども、われわれ男達はまずその顔を注視する。相当の年輩の老人でさえも雑誌や新聞の上から瞰むが如くつくづくと眺めているのを私は見る。
 そしてなんだつまらないといった顔して再び新聞を安心して読みつづける男もあれば、興奮を感じて幾度も、幾度もその顔を見返しながら、ある陶酔を覚えているらしい男達をも私は認める。そして老人であればあるほど、無遠慮に相手の顔を厚かましく観賞するものである。
 人間が人間の顔の構造を見て楽しむということは誰でもがすることだが、考えると何だか不思議な事柄である。それは単に二つの目とたった一つの鼻と口と位の造作に過ぎないのだが、その並べ方とちょっとした形のくるいによって千種万別の相貌を呈し、中村と、池田と、つる子と、かめ子との差を生じ、悩ましきものを生み、汚なきものを造る。
 地球上の絵画が線と色と調子と形の組み合わせ方によってあらゆる絵画を生み、上には上があり下には下があるかの如きものである。
 形は正確でちゃんとしているにかかわらず無味なるもの、あるいは多少憎らしきもの、鼻の影淡きもなんとなくまるまるとして猫に類して愛らしきもの、目と目と遠く離れて鳥に類するもの、造作長く上下に延びて狐や馬の如きもの、あるいは短くして狸の如きもの、鼻のみ見えて象を思わせるもの、目の位置上方に過ぎて猿に似たる、その他微細の変化によって幾千億の顔をこの地球の上に現している。その中で子は一人の母親の顔を記憶する。自然の力の不思議を私は奇妙に感じている。

 私は男の故をもってか、男の顔にはあまり興味が持てない。まず男については聖人か君子か、おめでたいか、悪人か、厭な奴か、善良な者か、色魔か、福相か、貧相か、馬鹿か、目から鼻へ抜けるけちな奴か、等の区別をつける位のあらゆる観相的なことのみに興味は多少持てるけれども、女の顔にいたっては本当の観賞を企てることが出来る、そしてあまりに多く興味を持ち過ぎて、うっかりするとその観相の方面を誤りはしないかとさえ思われることさえあるような気がする。要するに女の顔を見る時にはあまりに純情的になり過ぎる嫌いはありそうだ。
 したがって私は相貌、人品ともに世界第一位としてただ一人という女神のような顔があるとは思えない。またあっても交際すると案外つまらないものであるかも知れないと思う。多少の歪みや欠点はあっても、千差万別の顔をことごとくそれぞれの特質をつまみ出して賞する方が私には適当している。
 しかしながら顔についての大体の好き嫌いというものが各人に存在するようである。私は鼻高過ぎてやせている狐面や長くて馬に類するものよりも、鼻低しといえども丸々として猫に類する厚ぽったい相貌を好む。ことに西洋の鷲鼻の女が怖ろしい。彼女が一尺の距離に近づくと、それは天狗とも見えてくる。私の好みは支那、日本の鼻低くして皮膚の淡黄にして滑らかなものを選ぶ。
 しかしながら低い鼻といっても、平坦にして二つの穴が黒く正面へ向かって並んでいるのは珍奇であり下等である。その他皮膚の毛穴や、鼻のつけ根や、目尻や耳の中、そのつけ根、その皺、口の周囲等に何か不潔なものが溜っていたり、その形妙にいじけて歪みたるはほんとに貧相にして不幸な心を起こさせるものである。
 私のもっとも嫌な思いをするのは日本ものの映画において女優が大写となって笑う時、何とそれはいじけてけち臭く下等に見えることであることかと思う。日本の女がフィルムの上で本当に心もちよく笑い得るようになったら、その美しさをどれ程増すことであるか知れない。東洋の女性としてフィルムの上では私はメイ ウォンの顔を楽しむ。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和四年七月)

   旅の断片

 私の旅の希望をいうと、東風が吹けば東へ東へと用事も責任もなく流れて行く流儀の旅がしてみたいと思うのである。一枚でも多くの写生がしてみたい、八号を幾枚、一〇号を何枚、ついでに大作も一枚、あの風景は絵になるかどうか、雨は降りはしないだろうか、女中の祝儀はいかにしたものか、といった風のことを考えることは随分やり切れないことなのだ。
 私は画室を旅へ持ち出すことはたまらないと考える。あらゆる責任から離れて、ただふらふらとのんきな風にのっていたいのである。
 去年の春、偶然そんな風がちょっと吹いた、それは友人T君夫婦が郷里の松山へ帰るから行かないかと突然に私を誘ったのだ。私は大作をてこずって肩のこりで悩んでいた最中だったから早速その風に乗ってみた。そして一切、自分の意志を動かさず、終始一貫してT君夫婦の行くところへついて行くことにした。随分[#「随分」は底本にはなし]無責任な旅である。したがって今は大半何もかもその時のことを忘れてしまったがある場面の断片だけは思い出すことが出来る。
 まず退屈なのは尾の道までの車窓の眺めだ。一体、東海道線から山陽線にかけては素晴らしく平凡にして温雅な風景が続き過ぎるようだ。
 そのうち、ことに平凡な播州平野の中に石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]という岩山が一つある。この近くの高砂の町に私の中学時代の親友があったが、七、八年前の流感で死んでしまった。その友人の案内で私は十年前の真夏、この岩山の一軒宿で一カ月ばかり暮したことがあったのだ。当時私は金もないのに子供が生まれ、それが病身で泣き通す上に、絵はろくさま描けない、種々雑多のやけ糞から万事を母と細君にまかせて、この淋しい岩山の上へ逃げ出したのだった。
 その時、日本全体は米騒動の最中だった。私はここで生まれて初めてであるところの五〇号という大作を汗だらけとなって作り上げたものだった。どうせやけ糞から生まれた絵などろくなものではなかったが、万事の苦しまぎれから私はそれを文展へまで運んでみたものだった。そして落選したことがあった。石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]は私の情けない記念塔でもあるのだ。私はその山だけはなつかしく窓から眺めてみた。やはり相変わらず十年以前の如く白い岩山に松が茂っていた。そして、相変わらずカチンカチンと石を割って切り出しては運んでいるのも見えた。私はこの記念塔がかなり小さく遠ざかって行くまで眺めていた。
 尾の道から高浜までの連絡船はいい眺めだった。静かな海上と船の揺れ具合と汽船が持つ独特の匂いとは、私にとって珍しくうれしいものだった。私は船のまかない部屋あたりまでもその匂いを嗅ぎに出かけたりした。したくもないのに便所へまで行って船の匂いを嗅いで歩いた。そしてこんな連絡船の匂いから、私はインド洋、紅海などをさえ思い起こしたりした。
 T夫人は船のボーイに幾度となく今日は波は立ちませんかと訊いた。そのたびにボーイはヘイ大丈夫ですと受け合ったにもかかわらずだんだん揺れ出して来た。とうとう高浜へつく手前から雨さえ降り出して来た。
 道後温泉へは七、八年前ちょっと来たことがあった。あまり変わってもいなかった。しかし私の宿は大変ハイカラなもので洋館で、そして畳敷でお茶の代りに甘い煎薬のようなコーヒーをさえ飲ませてくれた。
 町は博覧会のためにかなり賑わっていた。道後の公園はちょうど夜桜の真盛りだった。夜桜の点景人物は概して男と芸妓だった。それらの情景のためにわれわれは多少の悩ましさを感じて帰り、湯に入って寝てしまった。
 翌日雨の[#「翌日雨の」は底本では「翌朝揺れ」]ドシャ降りの中を自動車で太山寺へ向った。そこは西国第何番かの札所だ。T君のお父さんが閑居しているところの閑寂をきわめたところだった。山には桃が多かった。境内には花が散って泥にまみれていた、巡礼がたくさん詠歌を唱えている。昔、二十年の昔なら洋画家は必ずや画架を立てかけたに違いないところのモティフであった。
 道後の湯は神社か寺の本堂の如く浴槽は何となく陰鬱で、あまり清潔な気はしない。湯口から落ちてくる湯に肩をたたかせようとするものが順番を待つために行列をしていた。ある老人は悠々と四つ這いとなって尻の穴をたたかせている。面白い形である。多分痔持ちなのだろう。私は湯の不潔さを感じて早く逃げ出そうと思った。
 博覧会は雨の中、どろたんぼの中に立っていた。T君夫婦とその一族は会場内の茶室へ招待されている間、私は娘曲芸団の立ち見をしていた。ちょうど[#「ちょうど」は底本では「ちょぅど
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