この教えはよほど私の頭へ沁《し》み込んだものと見えて、彼岸になると私は落日を今もなお眺めたがるくせ[#「くせ」に傍点]がある。そしてその時の夕日を浴びた父の幻覚をはっきりと見る事が出来る。
 彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛《はんじょう》はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園など春は一面の菜の花の田圃《たんぼ》だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑沓《ざっとう》の中には種々雑多の見世物《みせもの》小屋が客を呼んでいた、のぞき屋は当時の人気もの熊太郎《くまたろう》弥五郎《やごろう》十人殺しの活劇を見せていた、その向うには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首[#「ろくろ首」に傍点]が三味線を弾《ひ》いている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女《あま》の手踊、軽業《かるわざ》、こま廻《まわ》し等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗《すこぶ》る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。
 その多くの見
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