何かの故障で芝居の幕がしまり損ねた如く、多少間が抜けたので医者を呼んだところ、医者もこんなはずはないのだが、おかしいといった。しかしまず九分九厘まではといって帰ってしまった。
 その九分九厘という胴体がまた、昼めしがたべたいといい出し、晩めしも食うといい出した。
 また医者に相談したが医者といえども幕の故障をいかんともすることが出来なかった。
 それでは病院へでも入れますかということになって、とうとう一族の間には相談のやり直しが始まりその翌朝、大阪まで急いで行くことになった。完全に間が抜けてしまった切りである。
 病院で彼女は、改めて片手と両足の骨を正気のまま鋸で切断された。医者が痛いかと訊いたらちょっと痛いと答えたそうだ。しかし医者はこれで発熱すると多分もういけないでしょうといった。もうそろそろ熱が出るのかと思っていると熱が出ないのだ。
 翌朝になって彼女はまたお粥をたべた。医者はまったくこれは奇蹟です、こんな経過はめったにないことだといって感心して、安心なさいもう大丈夫ですといった。これでとうとう幕は完全にしまらぬことときまったが、それにつけても一族の胸へつかえることはこれからさきの入院料や手術代それからさきの幕のない女一代の長さであった。
 次の間で一族はなぜこんな不思議なことがあるのやろかといって、まったくこの結構な[#「結構な」は底本にはなし]奇蹟に対して迷惑そうな顔をした。

 奇蹟といえばアメリカ映画の活劇や猛闘を見ると奇蹟だらけである、もうあれだけの谷底へ自動車もろとも墜ちたのだから多分助かるまいと思っていると、案外平気な顔で何度でも起き上がって来る主役がある。
 七度生まれて何とかするという言語はアメリカではありふれて役に立たないだろう。

 私はそのころ流行していた軍歌の一節、死すべき時に死せざればという文句を思い出した。遠足などでただ何となく歌っていたものだが、なるほどあれはこのことかも知れない、と思ったことであった。
 やがて彼女は完全な亀の甲となって退院したが以来、はかなきその一生を棒となった片手に環をはめて、それへ糸を通し残された右手をもって糸車を廻しているという。
 それから彼女を食べた悪食坊主であるが彼は自殺のあった翌日から行方不明となってしまったそうである。坊主は亀を食べて中毒した。
[#地から1字上げ](「週刊朝日」昭和二年九月)

   酒がのめない話

 ある初夏の頃だった、私は誘われて戸山ヶ原へ出た。一人の友人はポケットにコップを用意し、も一人はビールを携げていた。五月の陽光は原っぱの隅々から私たちの懐中から、シャツの中まで満ちてしまい、ある温《ぬ》くさがわけのわからぬ悩ましさを感ぜしめ、のどを渇かさしめ、だるく疲らしてくれた。そこでわれわれは何か素晴らしいものが欲しいようなさもしいような感情を抱きつつ草むらの匂いを吸いながら寝ころんで青空を眺めたものだった。
 友人はビールをうまそうに飲みはじめた。私は実は一滴の酒も飲めないのだ。アルコールは私の心臓にとっては猫いらずであった。でも私はあらゆる酒の味を他の何物よりも好むのだからまったく私は難儀な境遇にあるといっていい。私はのどを渇かしつつ羨ましくそれらを眺めていたものだから、友人は、まあビールのことだ、一杯位はいいだろうといって私のためにコップを捧げてくれたので、あまりの羨ましさに、ついがぶがぶと飲んでしまったものだ。まったくそんなことは、かつてしたことはなかったが、するとやがて猫いらずは私の頭と顔と血脈とを真赤に染め出し、私の心臓を急行列車のピストンの如く急がせてしまったのであるが、わずか一杯のビールで苦しむのはさも男らしくないようだから、つとめて平静な顔をして雲を眺めていたところ、その急速なピストンが逆にすこぶる緩漫になったと思うと、急に五月の天地が地獄の暗黒と変じて来た。私はこれがわがなつかしき地球の見おさめかと感じた。
 友人は私の足を持って私を逆さにぶら下げたり仁丹を口へ押し込んだりした。二、三分の間私は草葉のかげへ横たわってから目が醒めた。まさかビールがこんなことになるとは友人も私も思いがけなかったことだった。その友人の一人はこの間死んだ帝展の遠山五郎君だが、私達が十幾年ぶりでパリで出会った時、彼もまたそのことを記憶していて思い出話をしたことである。そのかなり頑健そうであった彼がすこぶるたよりない私よりさきへ死んで行くとは思えなかった。

 私は左様に酒がのめないのだが、しかし、酒がのめたらどれ位この世の幸福が多いことかと思い羨んでいる。もちろん、のめないが故にどれだけの幸いがあるのか、それはよくわからないけれども多分それは細君がうるさがらないことであり、修身学的には結構なことでもあり、他人に迷惑を及ぼさないことでもあろ
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