食べる方はいいとして食べられるものこそ災難だ。
 ある時も[#「時も」は底本では「時」]午後三時ごろだというのに、お茶屋の女中を貸席へこの老人が引張り込もうとしていたそうだ。女中は大阪へ最近出たばかりのものだった。そして決して美しいものではなかったが、悪食家にとってはいいモティフであったに違いない。
 彼女は一生懸命道端の電柱へしがみついていたそうだ。あまり強情であるところから、その貸席の仲居が走って来て、なあ[#「なあ」は底本では「なお」]ほかの人ではないのやさかい、いいはることは聞いときなはれ、ためにならんといって、とうとう二階へ押し上げたということだった。
 彼女はしかる後、老人から金子三円を頂戴に及び、その中の半分は貯金にしておけよといい渡されたそうだ。
 でも一円五〇銭の貯えが出来るということはまだ幸福な方かも知れない。
 時には銀行も預かってくれない因果の種を宿してみたりする。
 因果の種を生んで幸福を感じた女というものはあまりたくさんはあるまい。でもまだ生む方はいいとして、生み出された因果の種自身にとっては大した迷惑である。
 大体、母体の中へ初めて現れてみた時、誰一人として悦んでくれたものがなかったということは実に憐れにも張合いのないことだと思う。それは、仁木弾正が花道の穴から煙とともにせり上がってみた時、見物人が皆居眠っていたというよりも、もっと張合いのないことである。
 喜んでくれるどころか、如何にしてこの種を消滅させようかとさえ考えられたりすることがあっては、一人前の魂を持ったものにとっては癪に障ることである。この様子を腹の中で聞いただけでも、まず因果の種はひねくれざるを得ないではないか。
 もし、私だったら母体を破って流れ出してやるかも知れない。

 私の知っているAという女がある悪食家に食べられた話がある。
 私は妙なめぐり合わせで、昔から変なものばかりに好意を持たれたものである。以前私は怪説絹布団という話を書いたことがある。それは六十幾歳で草履の裏のような顔に白粉をべったりと塗った婆さんに大変な好意を示された話である。
 私は自分の仕事の性質上、随分悪食家となってはいるけれども、食慾や色慾に対しては決して悪食にまで進んではいないつもりでいる。
 だから私は、左様な奇怪な婆さんを好きには決してなれなかったのだ。
 ところでこのAという女は六十歳ではなかった。当時多分十九か二十歳位だったと記憶する。年齢だけ聞くと、さも好意が持てそうに思われるかも知れないが、本当は持てないのだ。
 それが当分の間、手伝いのために田舎から私の家に来ていたことがあった。私はそのころ中学の五年生位だったと思う。現代のモダンボーイから見たらむしろ馬鹿に近かったかも知れない位遅れたぼんぼんに過ぎなかった。
 そんなわけで、私は彼女を台所の諸道具類と別段の区別もつけてもいなかった。火鉢と天窓と水道と雑巾と彼女であった。
 ところがいつからともなく彼女は、私の両親や人のいない時に限って私の前へいやに立って見せるようになって来た。初めのうちは何のことかわからなかったが、あまりたびたび立って多少の[#「多少の」は底本にはなし]笑いをさえ含むので、何となく不気味でうるさくなって来た。そしてだんだんうすぼんやりとそのわけが判って来た。わけが判って来ると堪らなく嫌になって来た。
 とうとう私は我慢が出来ないので、母に訴えた。どうもAがつきまとって堪らない。裏へ行くと裏へ来る、表へ行けば表へ来る、二階へ上がれば二階へ現れる、そしてにやにやと笑って困るから何とか一つ叱ってくれと注文した。母も半分は笑いながらもちょっと驚いた風で、早速世話をしたところのAの姉を呼んで話した。
 まあ、あの子が、そんな阿呆なことをしますのんか、まあそうでっか、一ぺん叱ってやりますといった。
 それからAはあまり私の前へ立たなくなったけれども、ときどき私を見るその眼が以前よりも物凄くなってしまった。
 彼女の実家というのは大阪近在のある貧乏寺だった。するとある時報恩講が勤まるからといって五、六日暇をとって帰って行った。その不在中こそせいせいしたことを覚えている。
 五、六日後、彼女は再び私の家庭へ現れた。ところがAは不思議にも、じろじろ私を以前の如く眺めなくなってしまった。その代り彼女は何だか遠くの空気ばかり眺め出した。
 ある日、車屋が彼女への手紙を持って来た。以来たびたび持って来るようになった。そのたびに彼女はふらふらと暴風の日の煙の如く出て行くのであった。
 やがてある[#「ある」は底本では「ある日」]一日、再び手紙によって誘い出された彼女は、とうとう夜になっても帰らず翌朝になっても帰らず、ようやくその夕暮時、ふぬけた煙となって帰って来た。この煙は一日一晩、どこを迷
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