》の三味線等において、まずよくもあれだけ温気が役に立ったものだと思って感心している。
 しかしそれは万事が過去である。現代の温気の世界は何を創造しつつあるか、まだよく判然しないけれども、先ず河合《かわい》ダンスと少女歌劇と、あしべ踊りと家族温泉と赤玉女給等は、かなり確かな存在であろうと考える。
 北極がペンギン鳥を産み、印度が象を産み出す如く、地球の表面の様々の温度がいろいろの人種や樹木、鳥獣、文化、芸術、人の根性《こんじょう》を産むようであるが、この関西|殊《こと》に大阪の温気によって成人した大阪人は、まだわれわれの窺《うかが》い知ることのできない次の芸術と特殊な面白い文化を産み出しつつあるに違いないことだろうと思っている。

   かんぴょう

 家族が病気で大騒ぎの時、いちじく印の灌腸薬を書生M君に大急ぎで買いにやりました。私が「オイ灌腸はまだか、早く早く」と待ち兼ねている時、M君は「いちじく印のものはありませんでしたけれども」といいながら一束のかんぴょうを携げて帰って来ました。それはかんぴょうではないかと私は怒りました。八百屋のおやじもおやじです。病人も痛む腹から微苦笑をかすかに洩らしました。

   グロテスク

 一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。レールの側に下駄が一足並んでいてさえ巡査の何人かが走り出すのである。毛髪の一本がお汁の中に浮んでいても食慾に関係する。その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。
 私はいつも電車やバスに乗りながら退屈な時こんな莫迦《ばか》々々しい事を考え出すのである。電車の中の人間の眼玉だけを考えて見る。すると電車の中は一対の眼玉ばかりと見えて来る。運転手が眼玉であり、眼玉ばかりの乗客である、道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが横行している事になる。幾億万の眼玉。考えてもぞっとする。
 今度は臍《へそ》ばかりを考えて見る。日本中、世界中は臍と化してしまう。怖るべき臍の数だ。
 無数の乳房を考えて見る。そして無数の生殖器を考えて見る。全くやり切れない気がする。
 やはり人間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。

   大和の記憶

 五月になると、大和の長谷寺には牡丹の花が咲く。常は寂しい町であるが、この季節になると小料理屋が軒を並べ、だるまという女が軒に立ち、真昼の三時でさえもわれわれを誘うのである。初夏の陽光に照されただるまの化粧と、牡丹と、山門の際でたべたきのめでんがくの味を私は今に忘れ得ない。そしてそれらが何よりも大和を大和らしく私に感ぜしめ、五月を五月らしく思わしめるものである。

   去年のこと

 私は去年の秋、一種の神経的な苦しい病気をした。それは心臓の活動が一分間に数回も休止するというすこぶる不安な病気であった。医者にそのくるしみを訴えても、本当によくのみ込めないらしかった。
「なるほど、そう、はあ」
という位の事務的な同情をするだけであった。そして決して死ぬものでないといった。
 死なないことが確かであっても、苦しいことには相違はなかった。心臓が停止するたびに、私はまったく死と生の間をうろうろするのであった。
 もっとも悪い時は寝ていたものであるが、多少いい時には用足し位に出あるいたものだ。
 途中でふと停滞が始まると、私は直ぐタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を呼んだ。そして自らの脈拍を数えながら走るのであった。タキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]の窓から死生の間にゆらゆらと見える街景こそ羨ましく美しいものであった。ことに女のパラソルの色はその美しさを数倍に見せた。
 ある時などあまりの苦しさからタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を捨てるに忍びず、とうとう阪神国道を芦屋まで走らせてしまった。そして私の家を見るに及んで私の心臓は安らかに動き出したのであった。
 今大変だった、死にかかった。といってみたが、もう慣れ切っている細君は医者と同じ顔をしながら自動車に乗りたかったのでしょうといった。私は随分いまいましかったが、考えてみると多少その傾向もないとはいえなかった。
 M夫人は私と同じ病気をした人だったことを思いだしたのでこの事を話してみた。
 すると夫人はこの病気をよく了解してくれる人が出来たといって大変よろこんだ。そして今度また停滞が起こったらすぐ電話をかけなさい。わたし同情しに行ってあげるといってくれた。
前へ 次へ
全60ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング