私はまったく何々博士の来診よりもこの方が本当の効験があるだろうと考えた。
しかしながらその後私の心臓はまず順調に動いている。
入湯戯画
私は入浴を厭《いと》う訳ではないが、石鹸《せっけん》を持って何町か歩いて、それから衣服を脱いで、また着て歩いて帰るという、その諸々の仕事が大変うるさいので、一旦着たものは寝るまで脱ぎたくないというのが私の好みである。それで私は、なかなか風呂へ容易に行こうとはしない。そのくせ、思い切ってお湯につかって見ると随分いい気持ちでよく来た事だと思う。以来は再々お湯へ這入る事にしようと考えながら、その次の日はすっかり忘れてしまう。ふと思い出しても再び行く心を失っている。
やがて爪先へ黒いものが溜《たま》り、手の甲が汚れてくるころ、われながら穢《きた》ないと思い、やむをえず近所の風呂屋へまで出かける。行って見ると即ちよく来たことだと思う。
中でも、最も入浴を怠《おこた》ったのはフランスにいた時である。勿論私の下宿には湯殿があるにはあったが、それをたてさせるためには、またわからない言葉を何か喋《しゃべ》らねばならぬのも億劫《おっくう》の種であるので、とうとう一ケ月以上も入浴をしない事は稀《めず》らしくはなかった。殊に南仏カアニュにいた時などはその村に一軒の湯屋もなく私の宿にも湯殿はなかった。女中に訊ねて見ると、この村では一生風呂へ入らぬものが多いといっていた。その女中自身もまだ風呂の味は知らないらしかった。私は半月に一度くらいはヴァンスから来る乗合自動車で二十分を費《ついや》してニースの町まで出かけたものだった。そこには二、三軒の湯屋があった。汗の乾かぬうちに、シャツと洋服とオーバーを着て、ちょっとの用達《ようた》しと散歩をして帰るのであるが、途中で湯冷《ゆざ》めがして、全身の皮が一枚|剥落《はくらく》してしまったくらいの寒さを感じたものであった。
私は入浴をうるさがるが、しかし風呂の味は厭ではない。殊に町の風呂屋は、町内浮世の混浴であるがために、その味は殊に深いものがある。
私は思いついた時勝負で風呂へ飛んで行くので、朝風呂、昼、夜の仕舞《しまい》風呂の差別がない。朝風呂にはさも朝風呂らしい男が大勢来ているし、昼には昼の顔があり、夜は丁稚《でっち》、小僧、番頭、職人の類が私のいた島之内では多かった。
何杯も何杯も、頭から水をかぶって、遠慮なく飛沫《ひまつ》を周囲へ飛ばせ、謡曲らしきものをうなりながら自由体操を行うところの脂《あぶら》ぎった男などは、朝風呂に多いのである。何か見覚えのあるおやじ[#「おやじ」に傍点]だと思って考えると、それが文楽の人形使いであったり、落語家であったり、役者であったりする。
今は故人となった桂文団治《かつらぶんだんじ》なども、そのつるつる頭を薬湯へ浮かばせていたものであった。私の驚いたことには、彼の背には一面の桜と花札が散らしてあった。その素晴らしく美しい入墨が足にまで及んでいた。噂《うわさ》によると四十幾枚の札は背に、残る二枚の札は両足の裏に描かれてあるのだということである。その桜には朱がちりばめてあり、私の見た入墨の中で殊に美しいものの一つであり、その味は末期の浮世絵であり、ガラス絵の味さえあった。まず下手《げて》ものの味でもある。それは文団治皮として保存したいものである逸品だったがどうもこれだけは蒐集する気にはなれない。私はいつか衛生博覧会だったか何かで有名な女賊の皮を見た事があったが、随分美しいもので感心はしたが、入墨も皮になってしまっては如何にも血色がよくないので困る。
文団治は高座から、俺《おれ》の話が今時の客に解《わか》るものかといって、客と屡次《しばしば》喧嘩をして、話を途中でやめて引下った事を私は覚えているので、この入墨を見た時、なるほどと思った。
しかし、彼の話は高慢ちきで多少の不愉快さはあったようだが、私はその芸に対する落語家らしい彼の執着と意気に対して、随分愛好していたものだった。近ごろはだんだん落語家がその芸に対する執着を失いつつあるごとく思える。勿論、本当の大阪落語を聴こうとする肝腎《かんじん》の客が消滅しつつあることは重大な淋《さび》しさである。
太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑《のどか》なことである。
しかしながら、私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢《あか》と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃《じんあい》と黴菌《ばいきん》とのポタージュである。穢ないといえば穢ないが、その触感は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている。その混雑は私にとって不愉快だが
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