っていはしないか、あるいは息子はあんな馬鹿な真似《まね》は嫌だといって相続をしなかったろうか、あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかとも思う。何にしても忘れられない見世物である。

   春眠雑談

 関東の空には、四季を通じて、殊《こと》に暑い真夏でさえも、何か一脈の冷気のようなものが、何処《どこ》とも知れず流れているように私には思えてならない。ところが一晩汽車にゆられて大阪駅へ降りて見ると、あるいはすでに名古屋あたりで夜が明けて見ると、窓外の風景が何かしら妙に明るく白《しら》ばくれ、その上に妙な温気《うんき》さえも天上地下にたちこめているらしいのを私は感じる、風景に限らず、乗客全体の話声からしてが、妙に白ばくれてくるのを感じるのである。
 近年、私は阪神沿線へ居を移してからというものは、殊《こと》の外《ほか》、地面の色の真白さと、常に降りそそぐ陽光の明るさに驚かされている。それらのことが如何《いか》に健康のためによろしいかということは問題にならないが、その地面の真白さと松の葉の堅き黒さの調子というものは、ちょうど、何か、度外《どはず》れに大きな電燈を室内へ点じた如き調子である。物体はあらゆる調子の階段を失って兵隊のラッパ位いの音階にまで縮められてしまって見えるのである。
 従ってこれら度外《どは》ずれの調子と真白の地面と明るい陽光とに最もよく釣合うところの風景の点景は如何なるものかといえば多少飛上ったもののすべてでなくてはならない。例えば素晴らしく平坦《へいたん》な阪神国道、その上を走るオートバイの爆音、高級車のドライヴ、スポーツマンの白シャツ、海水着のダンダラ染め、シネコダックの撮影、大きな耳掃除の道具を抱《かか》えたゴルフの紳士、登山、競馬、テニス、野球、少女歌劇、家族温泉等であるかも知れない。
 大体において、阪神地方のみに限らず、全関西を通じて気候は関東よりも熱帯的である。従って、あらゆる風景には常にわけのわからない温気が漂うていることを私は感じる。
 この温気というものは、何も暑くて堪らないという暑気のことをいうのではない、その温気のため寒暖計が何度上るというわけのものでもないところの、ただ人間の心を妙にだるくさせるところの、多少とも阿呆《あほ》にするかも知れないところの温気なのである。
 私は、大阪市の真中に生れたがために、この温気を十分に吸いつくし、この温気なしでは生活が淋しくてやり切れないまでに中毒してしまっている。しかし、かなり鼻について困ってもいる。そしてよほど阿呆にされている。時に何かの用件によって上京する時、汽車が箱根のトンネルを東へ抜けてしまうと、それが春であろうと夏であろうにかかわらず、初秋の冷気を心の底に感じて心が引締るのを覚える。勿論その辺から温気そのものの如き大阪弁が姿を消して行くだけでも、大層、心すがすがしい気がするのである。私はこの温気のない世界をいかに羨《うらや》むことか知れない。
 或年の夏の末、私の友人が私を吉祥寺《きちじょうじ》方面へ誘った、そして私の仕事の便宜上、その辺で住めばいいだろうといって地所や家を共に見てあるいたことがあった。
 その時、初秋に近い武蔵野《むさしの》は、すすきが白く空が北国までも見通せるくらいに澄み切っていて、妙にしんかんとして、その有様が来るべき冬のやり切れない物悲しさを想像させたのである。私は私の鼻についた温気の世界に後髪を引かれ、とうとうそのまま家探しをあきらめて帰ってしまったことさえあった。
 春眠暁を覚えずとか何んとかいう言葉があるが、全く春の朝寝のぬくぬくとした寝床の温気は、実はこうしていられないのだと思いながらも這《は》い出すことが容易でないのと同じように、大阪地方の温気に馴《な》れた純粋の大阪人にとっては、何かの必要上、この土地を抜け出すことには随分未練が伴うようである。

 大体温気は、悪くいえばものを腐らせ、退屈させ、あくびさせ、間のびさせ、物事をはっきりと考えることを邪魔|臭《くさ》がらせる傾きがあるものである。
 大阪では、まあその辺のところで何分よろしく頼んますという風の言葉によって、かなり重大な事件が進められて行く様子がある。従って頗《すこぶ》るあてにならない人物をついでながらに養成してしまうことが多い。よたな人物[#「よたな人物」に傍点]などいうものは関西の特産であるかも知れない。
 しかしながら、このぬるま湯の温気が常に悪くばかり役立っているとは思えない。温気なればこそ育つべきものがあるだろうと思う。例えば関東の音曲や芝居と、関西の音曲、芝居とにおいてその温気の非常な有無を感じている。
 即ち私は、浄るりと、大阪落語と鴈治郎《がんじろう》の芝居と雨の如くボツンボツンと鳴る地歌《じうた
前へ 次へ
全60ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング