造する。しかる後、彼は叫ぶのだ。
 彼が異性を目指しての突進は砲弾を発射した如くである。二人の娘がある日小川の流れに添うて漫歩していた時、一匹の男鹿が女鹿を見て走り出した。不幸な娘達はちょうどその弾丸の通る道筋に当たっていたのだ。たちまち二人とも小川の中へ突き落されてしまったのを私は見た。娘達は同性心中となって現れた。
 私は奈良に住んでだんだん鹿を憎むようになってしまい、常にステッキか石ころを用意して彼らの群の中を通るのであったが、彼らの鈍感さはまったく腹が立つ位のもので、ステッキで打ってみてもちょっと尻尾をピリピリと震動させる位のもので、キョトンとした眼でわれわれを顧みるのである。
 しかしながら近頃たまたま奈良へ出かけてみると、あの新緑の下に水辺にあるいは紅葉の側に、彼らを見るとそしてあのなまやさしい眼を見るとまた奈良へ来たという感を深くし、一つせんべいでも買ってやろうかという気にはなる。

   ややこしき漫筆

 近頃あの銀行はややこしいといえば、よほど内容が危険でいつ休業するかわからないから、今のうちに預けてあるものなら早く取り出しなさいということまでも含まれているところの複雑な言葉である。
 彼がややこしいといえば彼が怪しむに足るべきものだということになる。しかし断言はしていない。怪しいらしいが、あるいはそうでないかもしれないが、どうもうさん臭いという具合だ。
 ややこしい噂が立ってまっせといって肩でも一つたたくと、このややこしさは彼がややこしい場合とはまったく違ったところの、情事に関する陽気で浮気な、色気ある羨ましき噂が立っていることになる。
 彼らの仲はややこしいといえばやはり情事紛糾の意味である。この数学の問題はややこしいともいう。事件がもつれてややこしいとか、右か左か、西か東か、あるいはそのことごとくであるか、あるいは敵か味方か、敵にさえも好意を感じてみたり、その都合や心を汲んでやったり、憎みながら愛していたり、愛しながら憎んでいたり、好きか嫌かすこぶるはっきりとしないところの紛糾さらしき一種の心の、すなわちややこしさを表現するのに用いてはなはだ便利で重宝な言葉である。
 その他類似という場合にもあれとこれとがすこぶるややこしいともいうし、また何かさっぱりしないじじむさい、不潔にしてグロテスクな顔を見て、ややこしい顔してまんなとも称する。
 またシュールレアリズムに似て下手なるものやヴラマンクに似てかつ拙い絵などにも応用されて、ややこしいシュールややこしいヴラマンクややこしいピカソともいう。
 そしてこの言葉のいいところは、情事に使っても悪口に使っても、何に使用しても決して法律や巡査の言葉の如く角が立たない上に、大体の言葉のどん底にはにやにやと笑いながら女が撫でているような響きを持っているので、何をいわれても忽然と腹が立って来ない。もし腹が立つにしても、テンポがのろいのだ。相手と別れて家へ帰って一晩中考えているうちにどうやら腹が少しく立って来るという具合だ。といってまたその相手に面会するとせっかく立った腹がまた寝てしまう。結局ややこしい言葉である。

 このややこしい言葉が重宝に使われるということは、大体関西人とくに大阪人には人を怒らせずに悪口を述べ、悪口をのべながらも好意を示し、喧嘩しながらも円満にといった風の不思議に滑らかな心が昔から発達している、その結果がこの言葉で表現されるのだと私は思う。
 だから大阪人のややこしさを了解しない地方人や東京の手荒い気質を持ったものは、はなはだ大阪人との交際ではまごつく。
 例えば嫌なものを嫌だとはっきりいわないものだからつい食べさせる。結構でんなと顔では悦びながらも相手の好意を無にすることをおそれて、無理やりに胃の方へ押し込んでしまってあとから下痢嘔吐を催し、ついには食べさせた人をひそかに怨むようになったりする。そのくせ顔を見るとはなはだ丁寧に挨拶して、先日は結構な御馳走を頂戴いたしまして、もううちじゅう大悦びでなどいう。
 大阪人の喧嘩は大概の場合、かかる行き方によって組み立てられていくことが多い。
 好きか嫌か、嫌なら止めとけ、馬鹿、絶交だ、というふうに明快にはいかないのだ。
 さあ、どっちでもかまいまへん。まあ、あんさんのお好きな方を頂戴いたします。など体裁のいいことをいいながら、実はあれがほしいと心の中では思っていて、いつまでも忘れないのだからあぶない。
 双方が大阪人ならば、ああそうでっか、お好きなようにと、万事先方の心の奥を承知しながら、とぼけてしまって片づけるが、一方が簡単な人種だったらはなはだ不都合な取り合わせとなる。
 このややこしい言葉を持たない地方の人達が、至極簡単に僕は嫌だ、それをくれ、いらない。金を貸せ、いやだ、よし、馬鹿野郎、帰れ、とい
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