で近代の堺筋は外国の如くである。亀の住むべき屋根を奪ってしまい、長男の私を油絵描きにしてしまった。
 私の弟が私に代って家伝の薬を継承してくれたことを私は心から感謝していいことである。最近、その亀は、下寺町の心光寺の境内に居候《いそうろう》していたのだが、その心光寺の本堂が三、四年前に炎上してしまった。しかし不思議にもその亀のいた庫裡《くり》は幸いにして焼け残ったのである。この現代ではまたもや亀が水を吐き出したのだと吹聴しても誰も本当にはしないであろう。
 近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝《だいちょう》の鍋平朝臣《なべひらあそん》、一日、私に宣《のたも》うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸《ようや》くこの養老院において、万年の齢《よわい》を保とうというのである。

   奈良風景

 新緑のもとに女鹿が子供を連れて遊んでいる。何という絵らしい情景だろうと思って眺める。
 しかし私はしばらく奈良に滞在して、朝夕鹿と交際をしてみた。そして鹿というものは最初見た時は大変愛すべく、やさしい動物に見えるけれども結局、それは記憶力の欠乏せる忘恩の、ずうずうしい、食いしんぼうの、強いものに対しては弱く、弱いものにはすこぶる強く出るところの小癪に障る奴であることに気がついた。
 奈良の小学生達は大概、初夏の頃になると女鹿をおそれてなるべく避けて通学するのを見る。何故女鹿が怖ろしいかというと彼女は大切の赤ん坊を連れているからである。いやに神経を尖らせて注意深く周囲を眺めながら、多少足を踏ん張る如く力強く歩いている彼女は、大概子供を連れているか、あるいは近くの木の根や草むらに幼児を隠している。そして強そうな大人に対してはあまり向かってこないが女、子供、子守、老婆、幼児に対してはまったく威力を持つ。彼女は不意に背後からその両足を高く挙げてわれわれの肩を打つのだが、大概のものは一度で倒れてしまう。私は散々その足蹴にされている女や子供を見た。奈良公園の車夫どもは長い竿を持って彼らを追うのだが、もし誰も救うものがいなかったなら、半死半生の目にあうかも知れない。
 鹿はしばらく倒れたものを眺めていて決して去らない。逃げようとして起き上がると再び足で踏むのだがその堅い足はまったく金槌位の痛さはあるだろう。そんな場合、死んだ真似をしてしばらく寝ているに限る。すると鹿は強いギャロップ勇ましく悠々と引き上げて行く。
 五、六月、青葉の頃には日に何回となく私は人の悲鳴を聞いたことさえある。ある時は家族づれのうち老婆がやられた。老婆は倒れながら自分の腹の下へ孫を隠した。鹿はその上に乗りかかって両足で敲いているのだった。大勢のものが駆けつけたので鹿は去ったが、その家族は遊びをやめて帰ってしまった。その後老婆は発熱して四、五日寝たということだった。
 ある朝、私が顔を洗っていると宿の人が呼びに来た。今、鹿が産気づいています。早く見に来なさいというのだ。私は産というものは一切見たことがなかったので、早速見物に出かけると鹿は近くの馬酔木のかげへ寝て、眼に苦悩を表していた。なるほどその腹は波を打っていた。
 大よそ[#「大よそ」は底本では「およそ」]二〇分ばかりすると、鹿は急激に立ち上がって四つの足をふん張った。すると何か透明な水がさっと一升程も飛んだかと思うと、やがて黒い風呂敷包みの如きものがどさりと草の上へ転がったものである。鹿はその風呂敷を丁寧に食べてしまうと、その中からもっとも新鮮にして小さな鹿が現れ、その斑点はことに鮮明で美しく、ぱっちりと眼を開いて珍しい新緑の世界を眺めるのだった。
 私が不思議に打たれてぼんやりとしているうちに、子鹿はヒョッコリと立ち上がり、親の後ろへ従って早くも歩いて行くのである。
 私はその簡単さに驚いた。春日神社へ行くと安産のお守を売っているがなるほどと私は感づいた。
 男鹿がその威力を現すのは何といっても秋の交尾期だ。夜も昼も森の中で彼は叫び通して異性を呼んでいる。それは相当悲しむべき声である。そのもっとも大にして年経たものはすさまじき酋長の面構えで、多くの女鹿をしたがえて威張っている。
 彼はこの季節になると軒に干してある手拭い、風呂敷、ハンカチーフの別なく何によらず時にはバケツでさえも彼の角をもってさらって行く。そしてどうするのかといえば、それを彼の巨大な角の先へ巻きつけて、女鹿の前をその勇壮な姿において行進して見るのである。それは新調のネクタイを彼女に見てもらい、学生がわざわざその帽子を破り、画学生がブルーズを汚すのとほぼ同じものらしいのである。なお彼は水溜りの中へもぐり込みその泥を全身に塗りつけて、とても手荒い相貌を製
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