それから、私は町名を忘れたが今もなお木彫である処の古めかしい河童《かっぱ》が屋根からぶら下っているのを見たことがある。グロテスクで気味悪いくせにちょっと見たい気のするものである。
 私の生れた家は堺筋にあって、十年以前まで存在していた。先祖代々が古めかしい薬屋であるがために、家の店頭はあらゆる看板によって埋まっていた。今でも記憶にあるものでは急活丸という舌出し薬の看板である。藪《やぶ》医者のような男の半身像が赤い舌をペロリと出しているのである。それからライフという当時ハイカラな名の薬の看板はガラス絵だった。痩《や》せた男が臓腑《ぞうふ》を見せて指ざしている絵だった。その他、様々の中で最も手数のかかった大作は、何んといっても、私自身の家の膏薬《こうやく》天水香の亀《かめ》の看板であった。
 それは屋根の上に飾られてあった。殆ど一坪を要する木彫の大亀であった。用材は楠《くすのき》である。それは地車の唐獅子《からじし》の如く、眼をむいて波の上にどっしり坐り、口を開いて往来をにらんでいるのであった。
 そして、私の店には、一畳敷あまりの板看板が黒い天井から下っていた。それには三社御夢想、神位妙伝方と記されてあった。
 その中で生れた私は、人間というものは、誰でも生れると、何かなしに、頭の上に亀がいるもので看板の中に住んでいるものだと考えていた。そして、人間は膏薬を売っているものだと思っていた。ところが少しもの心づいて来るに従って亀は私の家の看板で、薬屋は自分の家の商売だということがわかって来た。しかしその膏薬は何に効験あるものかという事は全く、十七、八歳に至るまで、私は本当によく知りもしなかった。
 ただ私の店へ毎日参ってくる大勢の客はすべて腫物《はれもの》の出来た人であり、あるいは妙な処へ負傷した人のみであった。とにかく私は私の家が何屋さんで父は何をしているのか、屋根の亀は何んのまじない[#「まじない」に傍点]であるかについても永《なが》い間全く無意識だった。
 ところで私が中学へ通い出した時分頃からしばしば訊《き》かれたものである。君の家の亀はいつごろから存在するのか、その薬は何に効《き》くのか、香水か、それとも線香か、私は随分その答弁に悩まされたものであった。さあ、俺《おれ》が生れると既に亀が往来をにらんでいたのでよく知らんといって置いたが。しかし私も気にかかるので先代からの古い番頭に訊《たず》ねて見たり父に問うたりして見たが、皆はっきりしたことは知らないらしかった。番頭の音七は何んでもあんた、あれは親|旦那《だんな》の親旦那のその親旦那の時分によその古手を買いはったもので、その以前はやはりある薬屋の看板やったといいますというのだ。そして私の知っているのでは、島之内焼けという大火事の時に何んと火の手が、隣の豊田はんまで来た時に、急に風むきが変って、あんた妙なもんや、私とこはそのままに焼け残ったもんだす。あまりの不思議に天水香の亀が水を噴《ふ》いたというてえらい評判だした。と彼は常に私に吹聴《ふいちょう》するのだった。それから、明治の始めには、ある毛唐《けとう》があの亀を売ってくれといって来たという話も屡次《しばしば》していた。その時あの亀の目玉にはダイヤモンドがちりばめてあるのだという風評が立った。勿論、あれだけの大きな眼球がダイヤモンドであったら、私自身は今ごろ、どんな道楽息子になっていたか知れない。幸いにしてガラスであり、その中に綿が入れてあったから、私は画家《えかき》位で収まっているのである。
 しかし、西洋人としては、亀の眼球はどうであろうとも、ある東洋的なほりもの[#「ほりもの」に傍点]として、ほしがったということは事実であったことかも知れない。
 とにかく、この荘厳な亀は看板としてはかなり人の注意を惹《ひ》く事において成功していたものに違いなかった。堺筋の亀の看板というと車屋でもヘイヘイといって直ぐ走り出したくらいである。そしてそのグロテスクな相貌《そうぼう》は、よほど近所の子供たちにとってはおそろしいものの一つであったと見えて母や子守や父親が、泣いている子を私の家の前へ連れて来て、「それ見なはれ無理をいうと噛《か》みまっせ噛ましまよか、さあどうだす」といっておどかしているのを私は常に店番をしながら眺めていたのである。
 その亀は楠で作られてはいるが、永年の雨露にさらされ、頭だけは早く朽ちてしまうために、私の家の二階の納屋《なや》には古い頭が二つころがっていた。
 彫刻師が誰であったか、何もかもが不明である。私の先祖の自伝の中にもこの亀については記していない処を見ると、あまり問題にもしていなかったのかも知れない。古い出ものがあったから看板によかろ、大きいから屋根へ上げて置けといっていたのかも知れない。
 ところ
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