た。そして私は馬車代をちゃんと支払ったものである。

   洋画ではなぜ裸体画をかくか

 私の考えでは、人間はお互い同士の人間の相貌に対してことのほか美しさを感じ、興味を覚え強い執着を持ち、その心を詳らかに理解するものであると思うのです。
 それは何しろわれわれは同類でありますから、私達が犬や馬や虎や牡丹やメロンやコップや花瓶や猫の心を理解し、その形相を認めることが出来るより以上によく認め理解し得るものであると思うのであります。
 よく判り、よく理解出来、その相貌の美しさを詳細に知ることが出来、強く執着するが故にその美を現そうとする心もしたがって強く、その表現も簡単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
 要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
 したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
 春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
 すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
 しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
 その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。
 それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それは複雑[#「複雑」は底本にはなし]きわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和四年六月)

   亀の随筆

 近代の看板は、主としてペンキ塗りである。それは変色しやすく、剥《は》げやすい、しかしそれで構わないので、剥げたらまた塗るだけの事である。この目まぐるしい近代の街景にあっては地味にしてお上品なものは人の目には止《とま》らない。特に円《えん》タクの窓からの走りながらでは、よほどのものでない限り人目をひかない。何かなしに近ごろは、人の頭を撲《なぐ》りつける位いの看板を必要とする。電燈の明滅の如きはちかちかとして小きざみに通行人の神経を撲っているのである。
 最近のドイツあたりから来る新しいポスターにしてもがさようである。あの表現派風の円や棒、立体、縞《しま》等を配置する処の一見驚くべき大柄である処のものは皆、人の頭を撲る役目を勤めているのである。
 ちらと見た瞬間に了解出来る看板は近代における重要な看板である。
 ところで、昔の看板はさようではなかった。子守《こもり》や丁稚《でっち》が、あるいは車屋さんが車上の客と話しながら、珍らしい看板にはゆったりと見惚《みと》れているという有様であった。
 従って、ゆっくり観賞出来るだけの手数のかかった看板が多かった。
 ペンキのなかった昔は、看板は立派な木材が用《もちい》られ、そして彫刻師によって、書家によって、あるいは蒔絵師《まきえし》の手によって工夫されているものが多い。
 今の大阪では古風な家は改築され、取払われ消滅しつつあるが故に、三十年前の旧態をそのまま止《とど》めている商家もまた少くなり、面白い看板もだんだん姿を消して行くようである。しかしまだ、高津の黒焼屋の前を通ると、私は私自身の生れた家を思い出す。それから船場《せんば》方面や靱《うつぼ》あたりには、私の幼少を偲《しの》ばしめる家々がまだ相当にのこっている。
 現在の堺筋《さかいすじ》は殆《ほとん》ど上海《シャンハイ》の如くであるがその島之内に私の生れる以前からぶら下っている足袋《たび》の看板が一つ、そしてその家は昔のままの姿で一軒残っている
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