を養う。何といっても西洋だ、パリだといって騒ぐのだ。
欧洲からの帰途船中でのことだったが、ある紳士は日本人の体面を見せてやるんだと、朝からライスカレーの素晴らしい山盛を平らげてから甲板へ出て、何かデッキにつき出ている金物をぐんぐん引張っていた。何をしているのですかと訊くと、俺はこの船を空中へ引き上げるんだと威張っていたが、ずいぶん馬鹿気た話のようだが、どうもこれに似た心持ちが常に僕自身にも、あるいは誰の心にも多少働いているように思えた。私はなるほどと感心してその力業を眺めていたものだった。
船は紳士の力に応じて、多少引き上がって行くようだったがまた反対に落ちて行くようでもあった。
それは下から波が船を持ち上げているのである。とうとういつまで見ていても船は空中へは上がらなかった。
5
私のパリの下宿屋とその付近には、ずいぶん日本の画家や画学生が滞在していたものだが、集まって来ると、すぐこの憂鬱性と躁狂性のヒステリーが喧嘩をするのであった。一方はなあに、フランスなどつまらないものだよ、くだらないところだよ、思ったほどでもない、と主張すると一方は、日本など貧しいものですよ、あんなけちなところへは永久に帰りたくありませんよ、私はフランスの地面に立っていること[#「こと」は底本では「と」]それ自身が私の幸福なのですよという。この喧嘩は常に水かけ合いに終わって少しも収まらなかった。
結局、一方はパリを憧れている日本の奴らにろくなものはいないといって日本人を避けようとするし、一方ではあまり日本人同士集まっていては、言葉だって決して上達はしないし、けちでうるさくて堪らないといって日本人を避けようとする。両方から避け合って、やがて遠ざかる傾向がある。集まれば喧嘩するといったふうが多いようだった。
しかしながらこうして日本人を避け合って、自分一人は、天晴れのフランス人になり切れるかというと、それは何ともいえない。内地を朝鮮人が和服を着用して歩いているよりも、も少しおかしいかも知れないが、私はフランス人でないから何ともそれは申し上げる資格はない。
ところが左様に外国にいて日本だ、パリだ、と喧嘩したものが、いつか[#「いつか」は底本では「いつ」]どうせ日本へ帰ってくることになるが、日本でもやはり左様な喧嘩をつづけるのかと思うと、決して左様でもない。お互いにあの時は、どうせ心がいびつになっていましたからねと、口でこそはいわないが、よろしく推察してしまう。
それは自転車が衝突して二人とも転んだ時の如く、勝手に起き上がって埃をはたいてちょっと目礼してさっさと走って行くようなものだと考える。
だから大体、西洋からの新帰朝者の感想や言葉などいうものほど信用のならないものはないと私は思う。皆いろいろのつきものや昂奮の飛沫を喋ることも多いのである。まず一、二年間は静養させてやる必要があるかも知れない。私なども日本へ帰ってからだんだんと西洋の味がわかって来たように思えてならない。
私が今度、再び渡欧出来る機会があったとしたら、その時こそはまったくの正気でゆっくりと長閑に味わいたいものだと考えるが、これには確信が持てないようだ。私はちょっとした旅をしても、落着いた心で制作することさえ出来ない性質であるから、またすぐさま天狗につままれてしまうかも知れない。怖るべきは天狗の仕業である。
だが、時々人間は何かにつままれたくなるものだ。つままれたる[#「たる」は底本では「た」]昂奮状態というものはかなり淋しくない、いい気持でもあるのだ。
私は近頃何かにつままれてみたくて困っている。
6
トランクから妙に西洋の話になってしまったからついでにもう一つ書いてしまう。
私はある冬、ベルリンに一カ月あまり滞在していたことがあった。その時はちょうど戦後で、マルクが非常に下がり始めた頃だった。日本人は妙な運勢から皆大変な金持になったのだ。そこへまぎれ込んだ私達貧乏書生も、ちょっとした金持にはなれたのだ。たちまちあさましく[#「あさましく」は底本では「あさしく」]も友人H君とともに洋服を作ろうではないかと考えた。
下宿の娘がそれではといって私達を懇意な洋服屋へ案内してくれた。洋服屋はモッツストラッセにあった。
約束の二週間の後、私はその洋服を受取りに一人で出かけたものだが、ところがどうしてもモッツストラッセへ出られないのだ。私はくたびれてしまって辻馬車を呼んだ。そしてモッツストラッセ55と命じた。馭者はヤアヤアと合点して動き出し道を向かい側へ横切ったかと思うと急に馬車は止まってしまった。馭者がここだここだというので、よく見るとなるほど、そこに洋服屋があった。壁にモッツストラッセ55と書いてあった。ガラス戸の中にはおやじの白い頭も輝いてい
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