て、私の大型のトランクを開けてみる。そのトランクの中には私がパリから持ち帰ったあらゆるものがなるべくそのままつめ込んである。蓋を開けるとナフタリンと何か毛織物の持つ特殊な外国風の匂いとが交ってパリの下宿にいた時の空気が今なおなつかしく立ち昇って来るのを感じる。
 私はトランクの中へ頭を突込んでこの匂いを嗅いでみる。するとインド洋からポートサイド、マルセイユ、パリ、ベルリンが鮮やかに私の鼻から甦ってくるのである。
 トランクには三段の仕切りがある。それを一段ずつ開けて行くといろいろのものが現れて来る。だがしかしあまり立派なものはさらに出てはこない。まずワイシャツ、襟巻、靴下、それからマガザンプランタンやルーブル辺りで買ったシュミーズやピジャマ[#「ピジャマ」は底本では「パジャマ」]、年末の売出しで買った赤や青の美しい小切れの類、あるいはノエルの夜店で漁った古道具、モンマルトル辺りで買った人形や古時計、荒物屋のカンテラ、カンヌの宿でつかっていたランプ、ニースのカーナバル[#「カーナバル」は底本では「カーニバル」]で使うマスク類、レース、ガラス玉、煙草入れ、三つ揃い八〇フランという仕入れ洋服、その他、シネマのプログラム、電車やメトロの切符、絵ハガキ、手紙その他雑然とつまっているのである。私はそれを一つ一つ取り出しては眺め、しかる後元の如く丁寧に収めてしまう。そして蓋をするのであるが、蓋をするとまた間もなく開けて見たくなるのである、幾度開けて見ても同じものが現れてくるのにきまっているにかかわらず私はついこのトランクの前へ立ちたがるのである。
 こうして雨と退屈と、金のない半日などを暮すことは、真に安全にして適当な楽しみだと称してよろしいかと考える。

     3
 パリのトランクでふと思い出したことであるが大体において泥酔者というものは、ねえ君、俺はちっとも酔ってはいないだろうと弁解したりわけのわからないことを幾度も喋るものである。ヒステリーの女は自分が今ヒステリーを起こしているとは考えないし、気狂いは正気だと主張するし、怒っているものには君は怒っているというとなおさら怒るし、まったく厄介なものである。
 私は今となって私の短い滞欧中のことを考えると、私は日本を出てから日本へ帰るまで殆ど狐か天狗にでもつままれた如く、私の心は妙なところへ引懸っていたように思えてならないのである。

     4
 それは私の滞欧中の手紙をみても、その間に考えたことについて考えてみても、今思うとそんな馬鹿なことがあるものか、それは少しおかしいぞと思えることばかり多く書いているようだ。それでまったく自分自身もはなはだ頼りにならないものだと思い、信用の出来ないものだとつくづく考えられる。まったく私は何かにつままれていたらしいようでもある、心細い限りである。だから今洋行中の手紙などをみると恥しくて身の毛がよだつ思いがする。
 そのくせ私はいったん旅に出たその日から私は私自身の精神状態については、大丈夫か、つままれてはいないか、正気か、逆上していないか、帰郷病に罹ってはいないかと常に調べていたものだった。私は大丈夫だ正気だ[#「正気だ」は底本にはなし]と答えていたが、それがやはりどうやら間違っていたらしい。いったん船に乗り込むと同時に私はもはや常の心ではなかったものらしい。
 それはまったく私が旅馴れないのと私の洋行以前の日常生活があまりに旧日本的であったためその生活の急激な変化が一つの原因でもあったかも知れないと思う。私のそれまでの生活は不精髭を蓄えて懐手をして、四畳半の座敷で火鉢を抱いて坐った切りの日常であったものだ。洋服はネクタイの結び方も知らなかったのであった。
 それが直ぐに欧州航路の船客として、西洋人と同じ起居をすることになったのである。そして自分と連絡のある、あらゆるものから離れて海と空と、ペンキとマストとエンジンの音と、他人と外国語と遠方という世界へ投出されたのだから、多少気が転倒したのも無理のないことであるかも知れない。転倒したきり、変なところへ精神が引懸ってしまったものだろうと思う。
 ところでかくの如く変な精神状態になるのは必ずしも私だけではないようだ、外遊中の誰しもが多少ともこの傾向を帯びているように私には思える。誰も彼もが一種のヒステリー症に罹るのだといってもいいかと思う。
 一種の昂奮状態に陥るのである。いったんこの状態になるとなかなか回復しない。私は天狗につままれたる昂奮のままでパリやベルリンを歩いていたに違いない。
 この昂奮状態も人によっては憂鬱性となって現れる人と、躁狂性となる人とがある。私などは憂鬱性であったらしい。
 憂鬱の方は妙に日本が恋しくなり日本が世界一番だといい出す癖がある。躁狂性の方は反対に日本の悪口をいって心
前へ 次へ
全60ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング