でも、芝居と名のつくものは何から何まで見て置かぬと承知がならないという。そして舞台では誰が何を、どんなに演じていたって構わない。ただ要するに芝居の中で空気を吸うて毎日坐っていたいというものさえある。
さような人物になると座席など決して贅沢《ぜいたく》はいわない。いつも鯛でいえばお頭《かしら》の尖端《せんたん》か、尻尾《しっぽ》の後端へ噛《か》じりついて眺めている。
即ち近くで泣く子供を叱《しか》り付けながら、足の痺《しび》れを我《が》まんしながら、遠いせりふ[#「せりふ」に傍点]を傾聴しながらあるいは弁当とみかんの皮に埋《うま》りながら、後ろの戸の隙間《すきま》から吹き込む冷たい風を受けながら、お茶子《ちゃこ》の足で膝《ひざ》を踏まれながら、前へ坐った丸髷《まるまげ》と禿頭《はげあたま》の空隙《くうげき》をねらいつつ鴈治郎[#「鴈治郎」に傍点]の動きと福助[#「福助」に傍点]のおかるを眺めることが、最も芝居を見て来たという感じを深くし、味を永く脳裡《のうり》に保たしめるのであるらしい。そしてまた次の興行には必ず行ってまたあのうれしい苦労がして見たくなるのである。
それらの苦労をなめ、火鉢《ひばち》の温気と人いきれを十分に吸いつくして、頭のしん[#「しん」に傍点]が多少痛み出すころから、漸《ようや》く芝居の陶酔は始まるのだと芝居通の一人はいう。だがそれらの苦労を全部省略してしまった処の近代風の劇場では、見物人が煙草をのまぬが故《ゆえ》に、ものを食べないが故に、火鉢を持ち込まない故に、芝居が終るころになっても空気はからりと冴《さ》えているので、どうもも一つ、張合《はりあい》がなくて、陶酔すべき原料がないという。
しかし大阪では、新らしい近頃の文楽座《ぶんらくざ》以外では先ず、どの劇場もまだまだ、充分の原料を設備して愛好家を待っている。
さて、私の如く常に芝居の空気とその雰囲気《ふんいき》による訓練を欠いでいる無風流な者どもが、そして毎日無風流な文化住宅とビルディングとアトリエの中をズボンと靴で立ちつくしているものたちが、時たま観劇に誘われて見ると、東京の劇場は靴のままの出入りだから幸福だが、大阪では通人のする苦労を共に楽しまねばならない。この我まんこそが芝居をよりよきものにするのだとは知りながらも、つい腹の方が先きへ立ってくるのでいけない。時代のテンポは画家と
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