いう風流人を、かくも無風流にしてしまったかと、われながら、あきれるばかりである。
昨夜も久しぶりで、窮屈な桝《ます》の中へ四人の者が並んで見たが、四人の洋服は八本の足を持っているものだからその片づけ場所がないのだ。くの字に折って畳んで見たり、尻の下へ敷いて見たりまた取り出して伸ばして見たり、あるいはさすって[#「さすって」に傍点]見たり、全く持てあました。
愛人と共に過ごす幸福の一夜は、片腕の存在を悲しむという意味の唄《うた》がどこかにあったが、全く芝居では両足の存在が悲しい。帽子と共に前茶屋へ預けて来ればよかった。その窮屈の中へなお、火鉢と、みかんと、菓子と食卓と、弁当と、寿司《すし》と、酒とを押し込もうというのだ。
それから芝居の雰囲気を増す原料の一つである光景は、幕が開いてしまっているのに、小用や何かで立った男女老若が、ぞろぞろばたばたと花道を走る事だ。
昨夜も判官《はんがん》は切腹に及んで由良之助《ゆらのすけ》はまだかといっている時、背広服の男が花道を悠々《ゆうゆう》と歩いて、忠臣蔵四段目をプロレタリア劇の一幕と変化させた事だった。
全く幕が開いた暫《しば》らくなどは舞台では何が始まっているのか見えない位のこんとん[#「こんとん」に傍点]さである。姉《ね》えやん、光《み》っちゃん、お母《かあ》ん、はよおいでんか、あほめ、見えへんがな、すわらんか、などわいわいわめいている。
その喧噪《けんそう》の花道を走る芸妓《げいぎ》の裾《すそ》に禿頭は撫《な》でられつつ、その足と足との間隙《かんげき》から見たる茶屋場などは、また格別の味あるものとなって、深き感銘とよき陶酔を老人に与えたであろうかも知れない。
とにかくも、先ず芝居はどうであろうとも、芝居の中の浮世の雑景は、近代の様式による劇場のとりすましたるものとは違って、雑然として見るべきものが甚だ多い処に、私も芝居以上の陶酔を持つ事が出来る気がする。
なるほど、徳川時代か何かに生れて、のらりくらりと芝居の桝の浮世の中へ毎日入りびたっていたりする事は、悪くはない事だったであろう。ところでわれわれ現代人はこの八本の足の始末に困っているのだ。
さて、かかる光景を喋《しゃべ》っているうちに予定の紙数は尽きてしまった。芝居の本文は他の連中へ譲って私はこれで擱筆《かくひつ》する。
挿入の絵は公設市場に蟹《かに
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