出しては、立派な説も笑いの種となる事が多い。品格も何もかもを台なしにする事がある。
そこで、今の新らしい大阪人は、全くうっかりとものがいえない時代となっている。だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。ある者は読本の如く、女学生は小説の如くしゃべろうとしている傾向もあるようだ。
ところで標準語も、読本の如く文章で書く事は、先ず記憶さえあれば誰れにも一通りは書けるし、喋《しゃべ》る事も出来るが、一番むずかしいのはその発音、抑揚、節《ふし》といったものである。
君が代が安来節《やすぎぶし》に聞えても困るし、歯切れの悪い弁天小僧も嫌である。
大阪人は大阪弁を、東京人は東京弁を持って生れる。持って生れた言葉が偶然にもその国の標準語であったという事は、何んといっても仕合せな事である。
私の如く大阪弁を発するものが、何かの場合に正しくものをいおうとすると、それは芝居を演じている心持ちが離れない。それもすこぶる拙《まず》いせりふ[#「せりふ」に傍点]である。
自分でせりふの拙さを意識するものだから、ついいうべき事が気遅れして、充分に心が尽せないので腹が立つ。地震で逃げる時、ワルツを考え出している位の、ちぐはぐな心である。
自分の心と、言葉と、その表情である処の抑揚とがお互に無関係である事を感じた時の嫌さというものは、全く苦々《にがにが》しい気のするものである。
時にはそんな事から、西を東だといってしまう位の間違いさえ感じる事がある。全く声色《こわいろ》の生活はやり切れない。
大阪の紳士が電車の中などで、時に喧嘩《けんか》をしているのを見る事があるが、それは真《まこ》とに悲劇である。大勢の見物人の前だから、初めは標準語でやっているが、忽《たちま》ち心乱れてくると「何んやもう一ぺんいうて見い、あほめ、糞《くそ》たれめ、何|吐《ぬか》してけつかる」といった調子に落ちて行く。喧嘩は殊《こと》に他人の声色ではやれるものではない。
私は時々、ラジオの趣味講座を聴《き》く事がある、その講演者が純粋の東京人である時は、その話の内容は別として、ともかく、その音律だけは心地よく聴く事が出来るが大阪人の演ずるお話は、大概の場合、その言葉に相当した美しい抑揚が欠乏しているので、話が無表情であり、従って退屈を感じる。少し我慢して聴いていると不愉快を覚える。
だ
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