り不出来な顔もない。皆ことごとくが十人なみの美人で揃っている。そしてその形は皆ことごとく正しく機械的に整頓している。
猫や犬の顔もその機械的正確さにおいては変わりはない。しかし昆虫や鯛の如く皆ことごとく均一の顔はしていない。うちの猫とお隣の猫とは一見して区別が出来る。しかし私はいつも感心していることは昆虫、犬、猫、虎、猿の類にして出歯で困っているものや、鼻がぴっしゃんこで穴だけであったり、常に口をぼんやりと開けていたりするもののないことである。
まったく動物や昆虫の類で口の収まりの悪いものはいない。西洋でもあまり口の締りの悪いのや歯並みの乱れて飛出したものを見なかったが、もっともわれわれは多くの日本人にのみ接しているがためかどうか知らないが、とくに日本人の口もとに締りのよくないのが多くはないかと思う。私も実は口の辺りの不完全な構造によって常に悩まされている。
出歯の犬、出歯の猫、口の締らない虎、などあまり見たことがない。したがってその寝顔も、人間の寝顔においてもっとも不完全さを発見することがある。整然として正確な鳥の寝顔、猫の寝顔に私は清潔な美しさを感じる。そして汽車、電車の中で居眠る人間の顔がなぜ不正確で歪みがあるのかを少し情けなく思うことである。
朝起きて犬は口中を洗わないが歯糞がたまることもない。人間は歯糞、鼻糞、鼻汁等を排泄すること多量であるがために朝は必ず大掃除をせねばならぬ。かくも相当厄介な構造になっているのはどんなわけからか。どうも私はまだよく飲み込めないのだ。誰か詳しい専門家に会ったら訊ねてみたいと思っている。とにかく寝顔の美しいのは優秀な美人の特質と昔から日本ではきめられているのをみても、なかなか素晴らしき寝顔というものはざらにはないものとみえる。
蟋蟀《こおろぎ》の箱
今、秋となって、私の画室の周囲にあらゆる虫が鳴いている。その中には蟋蟀《こおろぎ》も鳴いている。この蟋蟀という奴が私に辛《つら》い思いをさせた事があるのだ。私は蟋蟀の声を聴くときっとそれを思い出すのである。
私が小学校へ通っている時分だった。私の家のあった堺筋《さかいすじ》は、今こそ、上海《シャンハイ》位いの騒々しさとなってしまったが、その頃はまだ大阪に電車さえもなかった時代だ。ちょっと裏手へ入るとかなりの草むらや空地《あきち》が沢山にあったものだ。私の家の向
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