、私の頭の上に他人の尻の大写しが重ねられたりする事も風情ある出来事である。そしてそれらは西洋人にはちょっと諒解出来難い風情《ふぜい》である。
 昔、私は一度それは田舎の風呂屋で、甚だ赤面したことを覚えている。美校を出て間もないころだった。私たち三人のものが、仕事をしまうと汗を流しに毎日出かけたものだった。男湯と女湯との境界に跨《またが》って共同の水槽があった。私は何気なくその水面を眺めながら洗っていると、そこへゆらゆらと美女の倒影がいくつもいくつも現われるのであった。私は友人を招いて水面を指した、彼はなるほどといってまた他を招いた、三人は折重って倒影の去来を楽しむのであったが、時々水を汲《く》む奴があるので美女は破れて皺が寄るのであった。漸《ようや》くにして波静まると思えば倒影は立ち去って無色透明であったりした。私たちは毎日水槽の一等席を争ったものだったが、数日の後、水槽の真中に一枚の板が張られていた。おや、変なことになったと三人が思っている時、うしろから三助が旦那、あまり覗《のぞ》かぬように頼んまっせ、あんたらの顔も向う側へよう映《うつ》ってまっさかいと注意した。なるほどわれわれはうっかりしていた。
 われわれはアトリエにあって、静物のトマトや、器物と同等において裸女を描き、毎日の如く仕事をし、馴《な》れ切っているにかかわらず、見るべからざる場所でちらちらするものに対して、あさましくも誘惑を感じるのである。
 洋装の極端に短い裾《すそ》や、海水着から出た両足は、ただ美しい両足であるに過ぎないが、芸妓や娘の長い裾に風が当る時、電車のつり革から女の腕がぶら下る時、多くの男は悩みを感じることが多いように思えるのである。
 近来、私は郊外に住んでいるために、風呂は家の五右衛門風呂をたてている。家にあれば風呂も億劫ではない。私は毎日の湯を楽しむようになってしまった。
 春夏秋冬、風呂は人間が生きている間の最も安価にして、しかも重大な幸福の一つだろうと考えている。しかし近ごろは浮世の混浴から遠ざかっている事を遺憾に思っているが、といってわざわざ電車に乗って、大阪へ入湯に行くという事は、今もなお億劫である。

   歪んだ寝顔

 昆虫の顔は皆ことごとく揃えの顔とわれわれには見える。蜻蛉の顔、蝉の顔などちょっと顔だけ見ていては、あの蜻蛉とこの蜻蛉との区別がつかない。均一でその代
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