そ羨ましく思う。そしてその仮装の気が利いて美しく整頓していること、華やかで明るいこと、踊と音楽が子供にまで沁《し》み渡っていること、その大げさなことなど、到底今の日本などでは見られない図である。
 とにかく、人間には年に一度くらいは何かの形式において底ぬけの大騒ぎくらいはあってもいいだろうと考える。
 今日、大阪の夏祭もやはり行われているのであるが、地車や太鼓の多くは教育資金や衛生組合の費用の不足にあてられ、わずかに祭の形骸《けいがい》だけが平凡な休日となって残されているに過ぎないのである。氏子はその氏神へ参詣《さんけい》する位に過ぎない。息子や娘は参詣すべき神様の御名前も知らないでいる位神様の内容が弱って来た。
 その代り子供たちは変なものを着せられたり白粉《おしろい》を鼻先きへ塗られたりする恥かしさから解放されつつある。だが、世は不景気にして常に常の如く静かである。時に示威運動の行列や自動車ポンプのうなり声が、子供の心を引立たしめるかも知れない。
 大人も子供も、夏は暑いから、せめては新世界へでも出かけて、剣劇の刃《やいば》の先きからでも冷気を吸うより外に素晴らしいこともなさそうである。剣劇の流行も無理のない勢いだろう。
 この衰微しつつある祭礼に代って今日の新しい人間に適当な、しかものぼせ[#「のぼせ」に傍点]上らしめるような騒ぎ方はないものかと私は思う。

   新調漫談

 人は皆それぞれはなはだよく似合った帽子を選択し被っているので私は常に感服している。誰が教えたというわけでもなく、政府が制度を定めたわけでもなく、各自、身分相応似合いの帽子を被って歩いている。大工、職工、画家、紙くず屋、大臣、不良少年等、皆似合いの帽子を被っている。

 では、帽子の種類がどれだけたくさんこの世に存在するのかといえば不思議にもそれはソフトか中折れ帽子位のものである。要するに多少の古びと、その被り方と、ちょっとしたくせのつけ具合によってあらゆる帽相が現れるのではないかと思われる。前上がりと前下がり、あみだ、横被り、中を高くし、あるいは凹まし、あるいはひしゃげてしまい、あるいは几帳面に、あるいはぐしゃぐしゃにつぶす等、種々様々の趣を作り、もって千差万別の人格と相貌とに当てはめて行くところに、人間の大変な神経と注意が払われていると私は思う。
 それは神様が人間の顔をすこぶる簡単
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