った。私は何んともいえず気の利《き》かない即ち大阪語でいえばもっさり[#「もっさり」に傍点]とした、しかも上等のきものを着せられ、畳表《たたみおもて》の下駄を履《はか》されるのだ。私は平常のままなら何処《どこ》へでも行けるが、これを着てはもう一歩も恥かしくて外へは出られないので、私は憂鬱に陥るのであった。
すると父は「この罰《ばち》当りめが」と叱りつけた。母は「せっかくこしらえてやったのに、よその子を見て見なはれ、そんなきもの[#「きもの」に傍点]は着てえへんやろがな」といって泣きそうな顔をした。私はその有難さはよくわかるのだが、そのよその子の常のままの姿をどんなに羨《うらや》んだか知れない。
一度、それは日清《にっしん》戦争|凱旋《がいせん》の時である。大阪全市が数日間踊り続けた事があった。その時私はそれこそ妙な縮緬《ちりめん》の衣裳を着せられた。腰には紅白だんだらの帯がぶら下っていたのを覚えている。鼻の先きへは多少の白粉《おしろい》が施され、私の頭の上には蝋燭《ろうそく》の点《とも》った行燈《あんどん》がくくり付けられ、手には団扇を持たされた上、さあ、近所へ行って見せて来いといわれた。私は日清戦争といえばすぐこの時の辛さを思い出す。私は頭へ火を点《とも》しながら団扇を持って隣家の軒下へ立って泣いていた。
この点、私は現代の子供が頗《すこぶ》る新鮮な母親を持ち、青い上衣《うわぎ》一枚で大威張りで飛んで行く明るい自由さを心から幸福だと考える。
それでも、なおこの現代において、私の生れた船場《せんば》や島之内あたりの、最も古風が今に残されているところでは、この夏祭や正月において、私と同じ運命に出会っている子供を時々発見することがある、私は憐《あわ》れに思う。
それはともかくとして、今日有名な天神祭などはこの数多くの夏祭の代表的な一つが辛《かろ》うじて、年中行事として保存されているものである。先ず結構なことだと思う。しかしながら、これは奈良のおん祭の如く京都の祇園《ぎおん》祭の如く、神社の行事として残っているのであって、これがために、世の中全体が踊り出したり、のぼせあがったりするものではないから淋しいと思う。
これに比べると南仏、ニースのカーナバル祭の如きは素晴らしいものである。それこそ終日終夜、全市の老若男女が入り乱れ踊り狂うのだから、あんな愉快な大騒ぎこ
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