るようになったら、その美しさをどれ程増すことであるか知れない。東洋の女性としてフィルムの上では私はメイ ウォンの顔を楽しむ。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和四年七月)
旅の断片
私の旅の希望をいうと、東風が吹けば東へ東へと用事も責任もなく流れて行く流儀の旅がしてみたいと思うのである。一枚でも多くの写生がしてみたい、八号を幾枚、一〇号を何枚、ついでに大作も一枚、あの風景は絵になるかどうか、雨は降りはしないだろうか、女中の祝儀はいかにしたものか、といった風のことを考えることは随分やり切れないことなのだ。
私は画室を旅へ持ち出すことはたまらないと考える。あらゆる責任から離れて、ただふらふらとのんきな風にのっていたいのである。
去年の春、偶然そんな風がちょっと吹いた、それは友人T君夫婦が郷里の松山へ帰るから行かないかと突然に私を誘ったのだ。私は大作をてこずって肩のこりで悩んでいた最中だったから早速その風に乗ってみた。そして一切、自分の意志を動かさず、終始一貫してT君夫婦の行くところへついて行くことにした。随分[#「随分」は底本にはなし]無責任な旅である。したがって今は大半何もかもその時のことを忘れてしまったがある場面の断片だけは思い出すことが出来る。
まず退屈なのは尾の道までの車窓の眺めだ。一体、東海道線から山陽線にかけては素晴らしく平凡にして温雅な風景が続き過ぎるようだ。
そのうち、ことに平凡な播州平野の中に石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]という岩山が一つある。この近くの高砂の町に私の中学時代の親友があったが、七、八年前の流感で死んでしまった。その友人の案内で私は十年前の真夏、この岩山の一軒宿で一カ月ばかり暮したことがあったのだ。当時私は金もないのに子供が生まれ、それが病身で泣き通す上に、絵はろくさま描けない、種々雑多のやけ糞から万事を母と細君にまかせて、この淋しい岩山の上へ逃げ出したのだった。
その時、日本全体は米騒動の最中だった。私はここで生まれて初めてであるところの五〇号という大作を汗だらけとなって作り上げたものだった。どうせやけ糞から生まれた絵などろくなものではなかったが、万事の苦しまぎれから私はそれを文展へまで運んでみたものだった。そして落選したことがあった。石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]は私の情けない記念塔でもあ
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