中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立ってもいてもおられないという場合に立ち到《いた》っているかの如くである。
従って近頃位、各先輩や審査員の家へ絵を持って廻る画学生の多い時代はかつてないといってもいいかも知れない。
とにかく一度審査員の目に触れさせて置く必要があるという考えから、無理やりに見せにくるという事がないとは断言出来ない事を私たちは感じる。その証拠に、この絵はよくないから駄目だと考えますといったはずの絵がやはり出品されている事も多いのである。
ひどいのになると、頼み甲斐《がい》ある先生のみを撰んで一つの絵を持ち廻っている人たちさえあるものである。そして、悉《ことごと》くの内意を得て置くと名誉にありつきやすいという考案である。
それをわれわれが何も知らず、うっかりと、時間を捧《ささ》げて苦しい思いを噛《か》み殺しながら正直に何とか批評さされた訳である。それらの人種を私たちは廻しをとる[#「廻しをとる」に傍点]男と呼んでいる。
全く、近代世相における人の心は単純なる大和魂では片づけられない。廻しをとる位の事は全くの普通事だといえばさようらしくもある。中元御祝儀と暑中見舞と、相変りませず御愛顧を願わなければ全く以て、食って行けない時代であるかも知れない。しかしながら、さように苦労してまで描かねばならぬほど面白い油絵でありかつ売れる見込みのあるべき油絵ではあるまいと思うのだが。
私は秋の期節《きせつ》になると近頃よくこんな事を考えさされるのである。
迷信
人は死ぬと、必ず六道の辻というところを通るべき筈になっているそうです。
私という人間が、ちょうど六人あればこの道の六つとも残らず見物することができて、はなはだ面白いのでありますが、私は一人しかないので、何と奮発してもその一道だけしか味わうことが出来ないというのはほんとに遺憾なことであります。
そこでわれわれは六道の辻に立って、その選択には随分頭を悩ます次第であります。その上そこには名勝案内の広告など立っていて、極楽の有様などが大げさに描かれてあったりなどするとなおさら迷わざるを得ません。例えば蓮華の半座をあけて待っている美人などのポスターを見てはかなり遊心を誘われたりなどするので、まったくこの富くじは陽気浮気では引き難いの
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