と同じ程度において人目を憚《はばか》ったものである。あるいは、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったともいえるが、文展出品は内密を主《おも》んじる風があった。
私などは、殊《こと》の外《ほか》恥かしがり屋の故を以てか、浅草《あさくさ》や千束町《せんぞくちょう》へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そしてわれわれはそれによってある気位《きぐらい》を自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声粛々《べんせいしゅくしゅく》時代といえばいえる。東洋的|大和魂《やまとだましい》がまだわれわれの心の片隅《かたすみ》に下宿していたといっていいかも知れない。
その私たちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々という文字を私でさえ忘れかかっている。今に大和魂といった位では日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
勿論《もちろん》、画学生の数からいって、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私たちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目《まじめ》な研究者があった訳であろう。しかし、嫌な奴も存在したであろう。
目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。図画教師たちや図案家、名家の令嬢、細君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人たちの余技として、絵画が普及し隆盛になりつつあるようである。
それは真《まこ》とに日本文化のために結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上においては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何《いかん》ともする事が出来ないのである。そしてただ、ちょっと、入選さえ毎年つづけていればそれで知友と親族へ申訳が立つという位の安値《あんちょく》な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
お引立てを蒙《こうむ》る、御愛顧を願う、という文句は米屋か仕立屋《したてや》の広告文では最早《もは》やないのである。芸術家は常に各展覧会において特別の御引立てと御愛顧を蒙らなければならないがために、年末年始、暑
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