で月並な秋の顔は出来上がる。なお何かモダンなポスターを求められたら、グラーフ・ツェッペリンの名と姿を月とともに担ぎ出すのは今のうちである。
とにかく秋の顔は春よりも清潔である。人の顔には用意があり冴えている。肥え太っていても脂と汗の臭気を伴わない。それらは内攻している。まず外見だけは高尚にして品格高しとせねばならぬ。
したがって燈火親しむという秋の言葉がある。静かなことである。春の夜はそぞろあるきという、もちろん愛人とともにである。秋の夜はつい待たされがちだという歌がある。太陽が近づくのと遠ざかるのとでこれだけの差が生じてくる。
つい待ち呆けの悔しまぎれに、一つ芸術でも味わってやろうかという気になったり感傷的な日記の一つも書きつけてみたくなったり歌の一つも詠じてみたくなるのも秋である。そのためかどうか知らないが、秋の美術展覧会ははなはだ賑わうけれども、春の展覧会は入場者が少ないので損をするという噂がある。まず秋の顔は高尚だとしておこう。
大和魂の衰弱
私自身の経験からいうと、私たちの学生時代は、自分らの作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうという事をあまり好まないという気風が多かったように記憶する。殊《こと》に展覧会前などにおいて持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌《いや》な奴めと考えられた位のものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概|判《わか》っているもので、それが判らない位の鈍感さならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そしてなお、先生たちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
学校や研究所は自分たちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞《ほ》め合い、悪口をいい合い、あるいは自分を批判し尽して以《もっ》て満足していたものであった。
初めて文展が出来た時、私たちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者どもは、ひそかにお互の眼を掠《かす》めて作品を持って先生たちの内見《ないけん》を乞《こ》いに伺うものが現れたようだった。さような所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做《みな》されていて、敢《あ》えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷《ふろしき》につつみ、そっと先生の門を敲《たた》くといった具合であったらしい。また学生の分際《ぶんざい》でありながら文展に絵を運ぶという事は少年が女郎買いする
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