の血液だと思うことがある。
 人間の血も春から夏へかけて表面に浮き上がり、人の顔は何か脂で光って汗臭くのろのろとだらしなくなると同時に地球は何となく水っぽく、野も山も森も湿っぽく、[#「湿っぽく、」は底本では「湿っぽくい」]草は露にぬれる。真夏の日照りが続けば続くほど西瓜の中へ紅いお汁が充満するのを私はあり難く思う。それらの水々しき夏の力が人間世界にあってはあらゆる男達を車や人ごみの中で、彼女達の肉体にまで吸い寄せもする。
 この点、秋は汗と脂を去り、臭気を止めそれらは内攻して内に蓄積され、やがて寒さへの用心であり、来るべき春への身構えのつもりもあったりして、とかく秋の人間世界は多少の慎しみがあり品格高きが如く私には考えられる。したがって人間の秋の顔は一年中のもっとも品位高い時ではあるまいかと思う。それは中秋の月の顔とも相通ずる点がある。

 太陽がわれわれの頭上へ日々に近寄るということと、太陽が一日一日南へ去って行くこととで、春秋の重大な差が生じてくる。
 満潮時に人間の魂が生まれ、引き潮時に魂がこの世から去って行くと昔の人は教えてくれたが、それは科学的にみれば本当かうそか私にはわからないけれども、さもそれは左様ありそうな心地がする。私の父が死んで行く時、母が臨終の時、誰かが小声で今ちょうど引き潮時ですというた不気味な記憶が、私の頭の底にこびりついている。
 潮が引いて行く、光が去って行くということは何しろ陽気な心を起こさせない。その代り多少とも真面目であり厳粛であり笑いごとではすまされない。気狂いかやけくそでない限り、人はそう違った感情を起こし得るものではない。人の魂の去って行く時、嬉しく思うものは葬儀会社の重役くらいのものかも知れない。正月元旦を終日泣いて暮してみたりする余興はあまり流行しないだろう。

 夕顔、朝顔、昼顔とは誰が呼び出した名か知らないが、それはさも涼しそうな朝を代表する顔である。そしてその季節が来ると、勝手に素直に季節向の顔は咲き始める。
 顔はまた看板だともいえる。人間の看板は顔である。すなわちレッテルともいう。ポスターでもある。月、虫、天高く、あるいは秋草、紅葉等は秋の看板である。秋の遊覧地の広告がしたいので注文すると、図案家は早速銀泥を皿に盛って大きな月を塗るであろう。その下へちょっと虫と秋草のあしらいである。そして何々鉄道と記せばそれ
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