らは煙草屋が全部影を消してしまった。看板も目につかなくなった。
煙草をやめてから五、六年になる近頃、妙にまた煙草屋が目につき出し、絵で疲れた時、煙草のことを考え、客に対してちょっと一本下さいと無心をいってみたりすることがある。これはいけないと自らを戒めているが、心の底のむすび目が多少ゆるんでいるような気がするのである。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和二年八月)
秋の顔
秋になって、私は人間の顔が紅葉したのを見たことはない。しかし木の葉が凋落する如くわれわれの毛髪は多少脱落はするようである。ことに貧弱ながらも生きている私などは夏から秋へのつぎ目の季節を嫌に思う。折角大切にしていた皮膚の脂気と、貧しくもめぐっていた私の血液が、腹の奥底へどんどんと逃げ去って行く心地がする。何か冷気を含む秋の風は下腹をしくしくと悩ます。ことに時雨と木枯しは情ない。
しかしながら、健康で大丈夫な他人は秋風によって食慾を増し、馬も、人も、女も、肥太るという話である。羨むべきことである。
最近十日あまり私は上京していて、帰ってみて驚いたことには、私の大切にしていた銀が(銀は真白な猫である)今までは夏痩して細長くて、猫として禁物の瓜実顔であったものが、たった十日あまりの不在の間にその重さを著しく加え、顔はまるまるとした丸ぼちゃ型に変化してしまっていたことであった。
してみると、秋のきざしが、ほのかに現れただけで、猫は丸ぼちゃとなり、私の血は腹の中へもぐり込み、血の気を失うことは確かである。猫と私との変化はちょっと相反している如く見えるが、猫の丸くなるのはもって冬への用心であり、私は寒気を覚えて、何か重ね着をして丸くなろうと考えるわけである。
奥へ逃げ去るのは私の血液ばかりでない。この半月ほどの季節の変化によって、私の家の近くの草原の凹みや古池に溜っていた水という水はことごとく地中深く吸い込まれてしまい、草原のじとじとした湿りが乾燥し、私の家の井戸水のかさが減じてしまうのが毎年初秋における常例である。そして次の初夏のころまで草原と池は底を現しているのである。すると近くの人々がその凹みを塵芥の捨場と心得て、ブリキの空箱などが山と積まれる。その不潔な山が春から夏への季節には再びなみなみと湧き上がる水の底へ沈んでいきその上を蛙や赤腹が泳ぎ廻るのである。地球の地下水を私は人間
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