かんしゃくを起したり、喧嘩をしたり、笑われたり、不愉快になったり、しているか知れないと思う。
ところで私自身が、私の貧しい品格を相当に保ちつつ、何かしゃべらねばならない場合において、私が嫌がっている処の大阪的な国語が、私の口から出ているのを感じて、私は全く情けなくなるのだ。自分のしゃべっている言葉を厭だと考えては次の文句はのどへつかえてしまうはずである。それでは純粋の東京流の言葉と抑揚を用いようとすると、変に芝居じみるようで私の心の底で心が笑う。全くやり切れない事である。つまらない事で私はどれ位不幸を背負っているか知れないと思う。
それで私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べ得る処の、本当の大阪弁を使わしてもらうのである。すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと湧《わ》き出してしまうのを感じる。
私は、新らしい大阪人がいつまでもかかる特殊にして半端な言葉を使って、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困っているのが気の毒で堪らないのである。あるいはそれほど困っていないのかも知れないが、私にはさように思えて仕方がないのである。
主として女の顔
電車の中へ、若い女が新しく立ち現れた時、大概の女客はまずその衣服を眺めるけれども、われわれ男達はまずその顔を注視する。相当の年輩の老人でさえも雑誌や新聞の上から瞰むが如くつくづくと眺めているのを私は見る。
そしてなんだつまらないといった顔して再び新聞を安心して読みつづける男もあれば、興奮を感じて幾度も、幾度もその顔を見返しながら、ある陶酔を覚えているらしい男達をも私は認める。そして老人であればあるほど、無遠慮に相手の顔を厚かましく観賞するものである。
人間が人間の顔の構造を見て楽しむということは誰でもがすることだが、考えると何だか不思議な事柄である。それは単に二つの目とたった一つの鼻と口と位の造作に過ぎないのだが、その並べ方とちょっとした形のくるいによって千種万別の相貌を呈し、中村と、池田と、つる子と、かめ子との差を生じ、悩ましきものを生み、汚なきものを造る。
地球上の絵画が線と色と調子と形の組み合わせ方によってあらゆる絵画を生み、上には上があり下には下があるかの如きものである。
形は正確でちゃんとしているにかかわらず無味なるもの、あるいは
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