リン臭し。陽気定まり、身体やや元気出ず。松茸のフライ、松茸入りのすき焼等毎日食べる。
 十一月、ストーヴを組み立てる支那製の大きな火鉢毎年買いたく思う。籠居してモデルを描く日多し。
 十二月、モデル、画室へ現る日多し。歳末の都会風景、趣多し。神戸と大阪のバーゲンセールなど漁りあるき五〇銭のネクタイなど買う。研究所にヴントアレッセイの展覧会あり。やがて餅を食べる幸福が控えている。
 右の次第を繰り返しているとやがて人生の終点へ到達する筈になっている。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和三年十月)

   夏の都市風景

 ドイツ人には兵隊の如く丸坊主の頭が多い。それでいて殺風景かというと左様でもない。若いものは若いなりにさっぱりとしているし、老人は老人として堂々ともしている。それは厳めしいドイツ人の体躯と相貌とに丸坊主がかえってよく調和している如く見えるのである。しかしながら初めてドイツに丸坊主が現れた時は少なからず変に見え、心ではにがにがしく思った人も多いことかも知れない。
 日本人や支那人だって、ある時代の要求に応じて、その弁髪や丁髷《ちょんまげ》を切り落す時は、生命の玉を取り落とす以上に感じたことであったらしい。
 それも馴れてしまえば、かえって丁髷などうるさくおかしく見えて来るものなのである。何しろ初めてという時に、その先頭を承るところのいの一番に乗り出すところのものは、よほどの勇気ある者でなければならない。とにかく笑われの標的となるにきまっているのだから。
 ところで、大概の人は自分も実はやってはみたいのは山々だが、恥しいのと、他人の口が気になったり、おっちょこちょいといわれるのが口惜しかったり、あるいはモガとか、若い奴、阿呆、といわれることを怖れ、世の中全体にその流行なり雰囲気なりが、ほぼ行き渡ってしまうまで、じっとこらえて、我慢をして待っているものである。
 断髪や洋装でも左様だが堂々と断髪し、堂々と本式の洋装をしてしまえば気もちがいいのをば、変に遠慮勝ちに、ちょくちょくとやってみるのでかえって怪しく不思議なものが出来上がってくるのである。
 断髪してしまうと、また何時思わくが変わっては大変だというしみったれた根性から、その頭髪をなかば後頭の辺りへ押し込んでしまって、ちょっと素人目だけを断髪らしくごまかして見せるもの[#「もの」は底本にはなし]なども
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